西山さんが逮捕されたのは、2004年7月。それ以来、すでに12年が過ぎていた。角記者は、私と打ち合わせをする1年前の2015年4月、大津支局に着任してすぐに西山さんの両親に取材に行っているが、実は、その前に、もう1人、両親を取材していた記者がいた。
両親が弁護団と進めた「再審請求」を追っていた地元記者
角記者の訪問からさかのぼること5年、2010年9月17日の中日新聞朝刊に「再審請求へ 供述鑑定『自白誘導強まる』」という見出しの記事が掲載された。
第1次再審弁護団が供述心理の専門家の鑑定書を証拠に再審請求する、という内容を社会面に4段見出しの「特ダネ」で報じたのは、当時、大津支局にいた曽布川剛記者 (37) だった。その前年、支局に届いた父輝男さん (78) の手紙を読んで滋賀県彦根市のご自宅に会いに行き、両親が弁護団と再審請求の動きを進めていることを知り、他に先駆けて「再審請求へ」という特ダネとして記事にしたのだ。
記事では、大谷大の脇中洋教授(法心理学)が任意段階から起訴されるまでに警察、検察官が作成した供述調書など72通の公判資料を対象に供述の変遷を分析し、「自白は体験に基づかない虚偽の供述をつじつまの合うように変遷させていったとみなすのが妥当」と結論づけたことを伝えた。
数日後、弁護団が会見した際も「自白は本人の意思によるものではない。捜査に問題がある」「早く再審を開始し、無罪の判決が出るのを祈る」「取り調べた刑事は脅しなどで自白を誘導した」「西山受刑者がやってもいない罪で、刑を受けて苦しんでいる」と弁護団の主張を余すことなく伝えた。
再審請求の手続きをするのを見守った西山さんの父・西山輝男さん(68)=当時=の話として「娘が調べを受けているのは知っていたが、まさか逮捕されるとは思っていなかった。娘を取り調べた警察官に対する怒りが消えることはない」「狭い刑務所の中で無実を訴え、耐え続けている娘がかわいそうでならない。一日でも早く出してあげたい」と、父親の思いもしっかり書き込んでいた。
それだけではない。後日、夕刊コラム「目耳録」のコーナーに「再審請求」というタイトルで記者自身の思いも、こう綴っている。
「投書してきた輝男さん(68)に会いに行った。約束の時間に30分ほど遅れたことをわびると、『6年間ずっと待っている。わざわざ来てくれてありがとう』。娘を刑務所から出してやりたいという思いにあふれていた。地裁に、もう一度真実を明らかにする場は設けられるのか、見守りたい」(抜粋)
有識者の分析、弁護団の主張、父親の思い、記者の目線。精一杯の発信をしていたが (Shutterstock)
地元記者として、精一杯の取材と最大限の発信だったと思う。しかし、第1次再審請求審は、地裁、高裁、最高裁ともあっさり棄却し、再び「有罪」を認定。裁判所が門前払いしたことで、曽布川記者は継続して報道する手掛かりを失い、その後、時期が来て担当を外れ、大津支局も離任していった。
裁判所のお墨付きという枠をはめられた状況では、ここまでが限界だろう。私が模索しようとしたのは、弁護団の動きを追い、裁判所の判断に左右される報道という現状の枠組みから脱却し、継続的に追い続ける独自の報道だった。
2016年12月20日、私は角記者と一緒に、西山さんの実家に両親を訪ねた。彦根市内を走る中山道沿いの古い市街地に、ご自宅はあった。
連載:#供述弱者を知る
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