冤罪報道の限界。脱・当局依存の手がかりは「主観」報道だった|#供述弱者を知る

連載「#供述弱者を知る」サムネイルデザイン=高田尚弥


冤罪事件はそもそも警察が容疑者と決めつけて逮捕し、有罪の主張を変えないわけだから、内部告発で違法捜査や証拠の隠蔽が露見するなどしない限り、無実を訴える客観報道のよりどころが、最初からないに等しい。検察が起訴し、一審で有罪になり、最後の砦の最高裁で判決が確定してしまえば、それでおしまいになってしまう。

司法の結論をもって、報道の可能性が閉ざされるというメカニズムも考えてみればおかしな話だが、現実にはそうなっている。裁判官が「真実」の守護者というわけではないのに、その裁判官に「真実」の審判をメディアが委ねてしまっている。お上至上主義の国のジャーナリズムの性とでも言うべきなのか、確定判決の正当性を検証する取材のプロセスは、ほぼ存在しない。

「再審決定しない限り、書けませんよね」

最初に私に呼吸器事件のことを話した角記者の言葉が、それを物語る。彼は西山さんの手紙を読んでその内容にショックを受け、裁判資料を読み直して、捜査のプロセスや判決に至るまでの問題点も突き止めていた。それでも、紙面で伝える手立てがない、と考えざるを得なかったのは、司法の見解を求める客観報道の呪縛のためだ、としか言いようがない。

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裁判官が「真実」の守護者というわけではない (Shutterstock)

賭けマージャンから見えた、司法と新聞の関係性


戦後、多くの冤罪によって司法の問題点が浮き彫りになり、自白偏重という冤罪を生み出す構造が変わらずにあるにもかかわらず、司法の判断にのみ頼る事件報道の構造が、なかなか変えられない現実がある。

コロナ禍の緊急事態宣言下で、東京高検の黒川弘務・前検事長が新聞記者らと賭けマージャンをした問題は、司法と新聞の関係の一端を露見させたとも言える。検事長に食い込むのが問題ではない。優秀な記者だからこそ、それができるのだ。問題の本質は、検察報道が当局発の情報一辺倒でしかないことだ。例外は、朝日新聞記者による大阪地検特捜部の証拠改ざんスクープなどごく一部しかない。検察の意に沿った情報ではなく、独自情報がメディアからほとんど発信されない検察報道の構造が固定化し、思考停止している状況こそが、事件報道が抱える問題なのだ。

角記者の質問に「書けないわけでない」と答えたのは、たまたま私の担当している大型記者コラム「ニュースを問う」が、当局の見解にこだわる必要のない主観報道のコーナーだったからでもあった。原稿用紙5枚分にあたる2000字という、新聞記事としては長文のコーナーで、複数回の報道に及べば、冤罪の立証につながるそれなりの調査報道を構築できるのではないか、と考えたからだった。

取材着手からおよそ半年後の2017年5月に始まった「西山美香さんの手紙」(当初の呼称は「受刑者」)は結果的には、2020年2月まで40回に及ぶ長期の連載になったが、取材を始めた当初は、そこまでのイメージは描けていなかった。

当時、このコーナーは1回だけの読み切り、というスタイルだった。長期連載への具体的なイメージを持っていたわけでもなく「何回かに分けてやれば、やりようによっては、できるのではないか」という編集者としての勘だけで見切り発車した。このコーナーの原則を取っ払い、連載形式もありにするとなると、編集局長に了解を得るなど社内の手続きも必要になる。ぼんやりと、あれもこれもやらなければ、とは思いつつも、何はともあれ動き出さなければ始まらない、ということで船出したのが実情だった。
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文=秦融

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