経済・社会

2020.06.28 12:30

冤罪報道の限界。脱・当局依存の手がかりは「主観」報道だった|#供述弱者を知る

連載「#供述弱者を知る」サムネイルデザイン=高田尚弥

2016年12月半ば、再び大津支局を訪れ、角雄記記者(37)と井本拓志記者(31)との3人で取材班を立ち上げた私は、続く二つのミッションを進めなければならなかった。一つは、両親のもとを記者たちと訪ね、350通余に上る手紙を借り受けるとともに、その内容を詳細に分析すること。もう一つは、主任弁護人で弁護団長の井戸謙一弁護士(66)に面会し、取材への協力を取り付けることだった。

前回の記事:突破口はひとつ。取材班は「下町ロケット」方式で動き始めた

西山美香さん(40)が両親に送り続ける手紙の抜粋を見て冤罪を確信はしたが、紙面化までにはまだまだ長い道のりになるだろう、と、この時点では予想していた。紙面化のためには、警察、検察、裁判所のいずれも知らず、無実の証明に直結する「独自の」情報が不可欠になる。裁判で言えば、「新証拠」に相当するものだ。10年以上に及び、新聞記者2人に無実を確信させた手紙は、それにふさわしい、とは言えるが、それだけで十分ではない。捜査の問題点の検証、虚偽自白に至るメカニズムの解明、その上で、全体を調査報道として構築する必要があった。

その柱になる手紙の分析には、西山さんの生育過程にまでさかのぼっての両親への詳しい聴き取りが欠かせない。裁判では、「迎合性がある」との指摘にとどまり、障害という視点は欠落している。西山さんに「障害」があった可能性をどこまで報道で立証できるか。警察と検察が作り上げ、7回にも及ぶ裁判でお墨付きを与えられてしまった〝虚構の真実〟を突き崩すには、その一点を突破できるかどうか、にかかっていた。

「客観報道」という呪縛


西山さんが逮捕された2004年には発達障害者支援法が国会で成立し、2005年の一審判決前に施行されている。改正で「司法手続における配慮」が加えられたのは後のことだが、障害を立証できれば、逮捕や判決当時、障害に配慮しなかった捜査や司法のあり方には疑問符が付くだろう。

ところで、有罪が確定した事件で、日本の報道機関が冤罪の可能性を単独で打ち出すことをあまりしないのは、日本の報道の「ニュース記事」の成り立ちにも一つの原因がある。

西山さんが獄中から10年以上にもわたって両親にあてて、切々と訴え続ける手紙を抜粋した前々回の記事「幼くて拙い。だが、獄中からの手紙はまぎれもなく『真実の声』だった」をお読みいただき、私と角記者と同じような印象をもたれた読者も少なくないのではないか、と思う。

ならば、なぜ、この手紙の存在を新聞で報道できないのか、という素朴な疑問が湧く人もいるだろう。そのまま、この手紙を掲載すれば、少なくとも冤罪に苦しむ彼女の思いがストレートに伝わるのではないか、と。ところが、それができない。なぜなのか。新聞に厳然とある「客観報道」の呪縛が、それを許さないからである。

日本の新聞が柱とする客観報道とは、基本的には、公的機関の裏付けがあることによって成り立っている。つまり、事件・事故では、警察、消防、その他公的機関の見解が、報道には欠かせない。
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文=秦融

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