経済・社会

2020.06.25 19:00

全米に広がる「記念碑をめぐる闘い」 歴史は誰を記憶するのか

公民権運動を記念した彫刻の一部(鎖でつながれたアフリカ系の男女と子どもが形象されている。今回の撤去運動の対象像ではない。Getty Images)


歴史は、奇妙なかたちで前進する


四半世紀前、アラバマ州バーミングハムで、公民権運動を記念して一連の彫刻が建てられた。もっとも衝撃的な作品は、市立公園の歩行者用道路の脇に立っているジェイムズ・ドレイクというアーティストの作品だ。ブロンズとスチールでできた犬たちが片側の壁から飛び出し、あたかも通りかかった人を食いちぎろうとするかのように歯をむき出して飛びかかり、反対側の地面に入り込む。
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かつてこの地で人々が直面した暴力を理解するためには、その暴力のほんのわずかなものでも体験する必要がある、というのがこの彫刻の意図である。公的機関による残虐行為が起こった場所に公式の記念碑が立てられるというのは、稀なことである。

歴史は、物理学とは異なり、すべての作用に対して同等あるいは逆の反応があるわけではなく、ときに奇妙なかたちで前進する。

2015年6月、サウスカロライナ州チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会で9人の黒人が殺された。チャールストンは多くの場所に南軍旗(連合国国旗)が掲げられている市でもある。人種戦争の火蓋を切ることを意図した血みどろの大量殺人は、逆の象徴的な効果を持っていた。南軍旗が人種差別の暴力と関連を持つという事実と向き合うことを余儀なくされたのだ。
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南軍旗は歴史の象徴だというのが、擁護する者の標準的な説だ。しかし、サウスカロライナ州で南軍旗が飾られるようになったのは19世紀のことではない。最初に州議会の議事堂に掲げられたのは、南北戦争100周年の記念として直示的に復活させた1961年のことだった。だが、(南北戦争の追悼というよりも)実際には(連合国からアメリカ合衆国への)統合反対を象徴するものだった。


南軍旗を持つ男。サウスカロライナ州チャールストンで行われた南北戦争150周年記念式典で(Getty Images)

チャールストンの大量殺人の後、社会活動家のブリー・ニューサムが州議事堂の旗竿をよじ登って南軍旗を降ろし、逮捕された。1カ月後、ジム・クロウ法に別れを告げる節目として、議員たちはようやく南軍旗を永久的に降ろすよう命じた。

南部全域を通して、公的な記憶が変貌しつつある。というか、これまで見過ごされていた歴史の多様な様相を認めるという形で、少なくとも拡大している。

サウスカロライナ州のアビヴィルは、収穫した作物の価格をめぐって白人と口論し、そのために集団リンチを受け、拷問され、銃で撃たれ、首を吊られた(黒人の)アンソニー・クローフォードの記念碑を、100年後の2016年10月に披露した。

アラバマ州モンゴメリー市では、イコール・ジャスティス・イニシアチブ(差別や偏見により公平な法の裁きを得ることができなかった人に法的な支援をする非営利団体)が、4000人以上の黒人のリンチの犠牲者の記念碑を立てている。この市には、ローザ・パークス博物館もある。
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