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強みは、若者のホンネをぶつけること


実は最初にグループインタビューに誘ったのは、後にオンライン診療システムで知られるメドレーを創業することになる瀧口浩平氏だった。瀧口氏が調査の設計を手掛けていたのだ。瀧口氏や広告代理店などから仕事が持ち込まれるようになった。それ以降瀧口氏に対し、高校生起業家の先輩ということもあり、兄のような関係として慕うようになった。

クライアントは巨額の予算を持ち、シビアな結果が求められる大企業ばかり。こちらが高校生であろうが、プロの仕事を求められている。ハイレベルな期待に応えようと奮闘する中で、自身の仕事への向き合い方も磨かれた。

クライアントとしても本気で商品開発やマーケティングに若者の意見を採り入れようとしてくれている。しっかり価値提供していきたいと思った。

強みは若者のホンネを正直にぶつけることだった。同世代の意見を聴くため、友人や休学中の大学生を集め、率直な意見を出し合った。「クライアントの意向を忖度して言って欲しいことを言う」のではなく、「若者の生の意見をしっかり言う」ことに重点を置いた。

「課題を突きつけられたのが、誰よりも早かったのだと思う」と当時を振り返る。同世代が学校の課題に勤しむ傍ら、日々、何らかの仕事の締め切りに追われた。一つひとつの壁を乗り越えていかないと、待っているのは脱落だ。スピードとクオリティを意識していく中で、「正しい価値を提供したら、正しい対価をもらえることに気づいた」。

気がつくと案件がどんどん舞い込むようになり、単価も上がっていった。個人事業として大金を稼げるようになった。学費のために背負った借金も、すっかり返すことができた。

仕事に励み、収入も増えていく中で、急激に世界は広がっていった。周囲には面白い若者が集まった。元祖SNSと言われる「前略プロフィール」の自身のページには1日100万の閲覧が集まる人気者になっていた。近年生まれた概念だが、当時の大野氏は若者の「インフルエンサー」と呼べる存在だったのだろう。

一方で、個人で仕事をしていくこと以上に、さらに大きな事業をつくっていきたいと思うようになった。自身は理系だと自負していたが、経営者としての将来に生かしたいと早稲田大商学部に進んだ。

18歳になったタイミングで人生設計を立てた。30歳までと、30歳から40歳まで、そしてそれ以降に分けて考えた。

事業はその頃に法人化し、大部分を譲渡した。「大野じゃないと」とのニーズの強い一部のクライアントだけは残し、子会社にマーケティング会社をつくった。その分の売り上げだけでも年間数千万円に及んでいた。

18歳、「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」


当時、世界的なITバブルに沸き、インターネットサービスやゲーム会社を立ち上げた起業家が一世を風靡していた。そんな時代と逆行するように、18歳の大野氏が次に立てた目標は「インフラにかかわる大きな事業を生み出す」だった。

世の中の基盤となり、人々の役に立つようなことをやりたい。そう考えた結果、エコロジーに取り組むことにした。BtoBで、企業が出すゴミを効率よく処理できて、環境にやさしい社会循環ができるようにするためのコンサルテーションをする事業を立ち上げた。

コスト管理につながるにもかかわらず、企業のゴミ収集においてはまだまだ競争原理が働いていなかった。そこに目をつけた。企業の責任として、ゴミをリサイクルするよう社会的要請が強まっていた時期でもあった。

ファーストステップとして、まずは企業にゴミの分別や回収を適正化するコンサルとして入っていき、回収業者にゴミを効率的に引き取ってもらうよう提案した。何をどう処理したかを当局に報告する業務も代行した。適切なゴミ処理により削減したコストの一部を成果報酬的に受け取るビジネスモデルだった。

2009年、企業のゴミ管理をクラウドシステムで行うサービスを生み出すために、株式会社ユニフェクトを設立した。

文=林亜季、写真=小田駿一

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