「僕らは、彼らを投資家だとは思っていない。ブリュードッグのファンであり、広告塔であり、一緒にこのビジネスの道のりを歩んでいる。僕らのビジネスの要なんだ」と、ワットは語る。
ワットとディッキーは、スコットランドの北東部のフレイザーバラという漁村で育ち、子供のころからいつも一緒だった。ワットはエジンバラ大学で法学を学んだが、法律家の道に進むには反骨精神が旺盛過ぎた。大学卒業後、ピンストライプのスーツを着たのはわずか2週間。すぐにスーツをウェーダー(防水の胴付き長靴)に着替え、その後6年にわたって漁船に乗ってはタラやロブスターを捕り、陸では自家製のビールを造った。
ディッキーのほうは、もっと計画的だった。12歳のときに実家の屋根裏でビール醸造キットを見つけると、父親と一緒にさまざまなフレッシュホップを試すようになった。同じエジンバラのヘリオット・ワット大学で醸造と蒸留を学び、04年に卒業すると、ビール醸造職人としてイングランドの「ソーンブリッジ・ブルワリー」に勤めた。
ワットが定期的に訪ねて来ると、2人は独自の配合でビールを醸造したが、取り組んでいたのは主に米国スタイルのIPAとアルコール度数の高いインペリアルスタウトだった。
06年、2人はいまは亡き英国人ビールライターのマイケル・ジャクソンと出会った。1980年代の「ビール・ルネサンス(復興運動)」の神様のような人物だ。2人の自家製ビールを試飲したジャクソンは、「フルタイムでビール造りを始めるべきだ」と彼らに告げた。
貯金3万9000ドルと、銀行から借り入れた2万6000ドルが元手だった。
「打ち捨てられた、悲惨な、いまにも崩れ落ちそうな納屋を地元の自治体から借りた。頼み込んだり、借りたり、物々交換したり、密造したり……。そんな日々だったよ」と、ワットは当時をそう振り返る。
ステンレス製醸造タンクを買う資金がなかったため、代わりに地元の園芸センターで手に入れたプラスチック製の貯水タンクを使い、それでも2人はビール造りを続けた。そして07年4月にはブリュードッグ製ビールの最初のバッチを完成させた。ただし、それは最悪のタイミングで、1年後にはサブプライムローンによる金融危機に端を発した大不況が起きた。無名のビールなど、誰も買いたがらなかった。
「家賃が払えなくなって、2人とも実家に戻るハメになった。24歳にもなってね。2人で何でもやったよ。手作業でビールを瓶詰めしたりね」
やがて、光明も差してきた。08年、英スーパーマーケット大手のテスコが主催したビールコンテストで優勝。同社にある計画を持ち掛けられた。ブリュードッグのビールのうち4種類を、英国各地400以上のテスコの店舗に置き、週に約2000ケース売るというものだった。ワットは言う。
「自分にできる最高のポーカーフェイスを装ったよ。うちが男2人と犬1匹の会社で、手作業で瓶詰めをしていることなどおくびにも出さずに」