情報の標準化から考える、ポストコロナ時代の移動と自由

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葬られたハイビジョン


ところが1980年代になって、この分断を統一しようとするような動きが、なんと日本から起こった。NHKが1970年代から開発を始めた次世代テレビのハイビジョンが実用段階に近づいてきたのだ。

1964年の東京オリンピックの翌年にはテレビの世帯普及率は9割に達し、本格的なカラー放送の普及が始まり、戦後のテレビ需要の目標を達成したNHKは、次の目標を模索しており、NTSCを超える映画のような高画質テレビや立体テレビの開発も始めていた。

こうして作られた高画質テレビは1980年代にハイビジョンと呼ばれるようになったが、NHKは新方式を広めて世界標準にしようと、もともとNTSCで日本を主導したアメリカの放送局に採用を打診した。横長で走査線の数も倍で映画やスポーツ中継にも十分対応できると自信満々だったが、三大ネットワーク中で興味を示したのはCBSだけだった。

アメリカの放送局は、テレビCMを取って儲けることに興味はあったが、高画質には何の関心も抱かなかった。ハイビジョンを使うには放送局の設備を一新し、それまでのテレビを買い替えなくてはならないが、それだけの設備投資に見合うCM収入が増える見込みがなかったからだ。

しかし当時、米ソの冷戦がデタントで緩和の時期に入り、アメリカは電波政策を転換して軍用の電波を民間の新サービスに開放しようとしていた。モバイルサービスが新たな帯域を欲しがり、テレビ局がとりあえず予備に持っていたUHF帯のチャンネルを、利用していないなら欲しいと言い出した。

チャンネルを手放すことに恐れを抱いた三大ネットワークは、NHKの新方式を導入するために現有の使っていないチャンネルが必要だと国には訴え、NHKにはその話はせずに、国際規格としてヨーロッパにも提案することをサポートすると言い出した。NHKは、やっと国家間のエゴを超えた次世代テレビという理想が実現できると喜んだ。

こうして1986年にハイビジョンはITUに持ち込まれたが、アメリカが後押しする方式に対し、ヨーロッパ勢は真っ向からハリウッドやアメリカ文化の侵略だと拒絶した。そして大急ぎでヨーロッパの次世代テレビ方式の作成に着手した。

NHKを利用しようとしたアメリカの放送局も、ハイビジョンをそのまま導入したら日本方式の支配下に入ってしまうし、もともと同じNTSC方式にすればアメリカ製テレビを売れると思っていたのに、逆に優秀な日本の家電メーカーにやられてしまい、国内で残っているのはRCA一社しかないことに気づき愕然とした。自動車と同じ日米逆転がテレビでも起きていたのだ。

MITではメディアラボを中心に、次世代テレビはただの放送の話ではなく、いずれはコンピューターと融合したデジタル家電になり、産業界にダメージを与えるという論議が持ち上がり、アナログ方式のハイビジョンを牽制した。

当時は難しいと考えられていたテレビのデジタル化は、1990年代に入って実現し、アメリカはデジタル方式でハイビジョンの追い落としにかかり、日本もハイビジョンのデジタル化に舵を切ってどうにかキャッチアップする、という次世代テレビの戦国時代が世紀末には起きていたのだ。
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文=服部 桂

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