その関係、密です? 問われるメディアと権力の「ソーシャルディスタンス」

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誤解を恐れずに言えば、ビジネスパーソンが営業で自分のことを知ってもらい、信頼を得る工程に似ている。犬の散歩をしているときだけなら“雑談”に応じてくれた捜査幹部もいた。こうした関係構築や取材手法についての批判はあるだろうと思うし、理解もできるが、不祥事や捜査ミスについては厳しく取材・報道してきたつもりだ。

メディアと権力の関係。そのバランスや距離感は、いつも難しい。「食い込むこと」と「追及すること」を両立させるのは、離れ業とも言えるからだ。

今回の問題をきっかけに、記者が当局の関係者に「食い込む」ことそれ自体に対して疑問を持つ人も少なくないことがわかった。(余談だが記者によっては「食い込む」というより「刺さる」という言い方をすることもある)

私は、取材のために「食い込むこと」と、「癒着すること」は完全に別だと考えている。両者を分けるものは高い記者倫理やジャーナリズム精神かもしれない。もちろん、なんでもかんでも食い込めばいいというわけではない。しかし、記者が食い込まないと取れない、民主主義や知る権利の実現にとって必要な内部情報は必ず存在する。

たとえば、リクルート事件や大阪地検証拠改ざん事件、森友文書改ざん事件などの優れた調査報道は、記者が当局の関係者に食い込むことなしには世に出ることのなかったスクープだ。

「斬るため」に食い込む。取材の成果を届けられているか


記者は何のために、政府や当局を担当して、取材するのだろう?

政策や課題を分かりやすく伝えたり、悲惨な事故の再発防止を訴えたりする取材も極めて重要なメディアの仕事だが、最上位に置かれるメディアの存在意義は、やはり権力の監視である。

権力の監視とは何か。政府や当局にとって不都合な真実や、隠蔽されそうな不正を、白日の下にさらすことである。「いざという時」に、ためらいなく追及するためにいる。「いざという時」のために常日頃から備えていなければならない。

大手メディアのすべての記者は、研修でだいたいこのようなことを叩き込まれて、取材の現場に出る。デスクもそのように指導する。

「斬るため」に食い込む。不正があったときに内部告発の受け皿として、選んでもらえるよう、普段から関係構築する。取材対象の組織内部で起きている不正が隠蔽されそうなときに覚知するために食い込み、きちんと報じる。

ところが、いつしか、食い込んでも「斬らない」ようになる記者は少なくないのではないか。あるいは、斬るべき時に「ためらう」。もっと最悪なのは、斬るために自分が記者としてそこに存在していることを「忘れてしまう」。

食い込み、さらに親しくなり、取材対象とともに“出世“することが目的化する。
そこにはもはや、読者・視聴者は存在していない。

自分の記者時代を振り返って、自戒を込めて、思う。
メディアと権力。両者の距離感と緊張感について、いま改めて問い直されている。
メディアの側にこそ強い意志が必要だ。

「賭けマージャン」問題は、メディアに対し、古くて新しい問いを投げかけている。

「何のために食い込んでいる?取材成果は報道され、国民に届けられているか?」

文=島 契嗣

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