4. 在宅での仕事は孤独なマラソン、ペースは死守
家で仕事をしていると、何をしようと自分の勝手ではあるけれど、その反面自らの手で規律を定めないと、毎日にメリハリがなくなり、かえって息苦しい生活になってしまう。
私は、フリーとなって自宅で仕事を始めた当初、よく「自由とはなんぞや」と考えたものだった。会社に行かず、電車に乗らず、家で自分のペースで仕事をしていく。それは一見、快適でストレスのない生活のように思えるかもしれない。しかし、社会のメインストリームから外れて自分のスペースで羽を伸ばすということが、必ずしも「自由」への道につながっているわけでもないということを痛感した。
自由とは、束縛のない状態ではなく、張り巡らされた規律の網目の一角にひそやかに存在していくものかもしれない。締め切りがあるからこそ「自由な作品」がどうにか仕上がったり、予算の都合があるからこそ思いもよらぬフリーキーな作品が生まれたりする、というようなことと似ているのかもしれない。
砂糖自体は甘いけれども、すこし塩を加えると、人はより甘みを感じる。それと同じように、「自由」はそれ単体では存在していないものかもしれない。あらためて「自由」とは難しいものであると思う。
あとちょっとで終わる……、と仕事を続けているうちに、いつのまにか日付は変わり、明け方に眠り、結果として目覚めが遅くなり、リズムが狂っていく。しかし、これは大きな過ちの一歩だ。
在宅仕事は、一緒に走っている人が見えない孤独なマラソンのようなもの。だからといって、自分のいつものペース以上の走りをすると、必ず後でツケがまわってくる。長年培ったリズムであったとしても、崩れるのは一瞬だ。見えない伴走者の息遣いに耳を澄ますということ、そうすることで、本来の「自由な走り」ができるようになる、そのようなこともあるだろう。
世界中を旅することと、自分に向き合い自分自身を掘り下げること、この2つは実は自分を深めるうえで実はたいして差がないのかもしれない。
自分を本当に知るということは、「世界」を知ることにも通ずるものだと思う。家で仕事をしていれば、いやがおうにも自分という「かいぶつ」と向き合うことになる。自分と世界は表裏一体なのかもしれない。プラスに捉えるならば、今回の新型コロナウイルスとの遭遇は、それを実証する絶好の機会といえるだろう。
連載:装幀・デザインの現場から見える風景
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