「無駄な仕事」をやりきると温存されてしまう
そして、若い世代に申し訳なく思うのが、無駄な(非効率な)仕事を私がやりきったために、職場にそのやり方が温存されてしまったことです。
例えば、自分の仕事でいえば、ものすごい数の面接をやりきりました。採用のピーク時は1日12時間面接というのを2カ月程度も続けるというのを毎年行っていました。私がやりきったものですから、「面接はやればやるだけよい」ということになってしまい、後に続く人は大変だったと思います。
さすがに最近ではターゲティングの精度の向上や、適性検査でのスクリーニングを強化するなどで、むやみに面接をしなくてもよくなっているようですが、それは最近のことです。
やりきるのでなく、改善しておいてほしかった
「昔はブラックだった」という昔話の影にあるのは、「大変だったがオレはやりきった」という自慢です。しかし、上述のように、若者からすれば「やりきった、じゃねえよ」です。
「あなたがやりきったから、いまだにこんな無駄な仕事が残っている」「やりきるのではなく、こんなことできませんと突っぱねたり、改善したりしておいてほしかった」というのが本音でしょう。
悪意は無いかもしれませんが、「昔はブラックだった」おじさんは、まさに、工数削減をするという責任を無自覚に放置したわけです。そのうえ、上司になってからも、工数削減も能力開発も「自律的に頑張れ」「自由と自己責任」では、嫌われても当然です。
やりきってしまい、ごめんなさい
数年前に『やり抜く力 GRIT』という書籍がベストセラーになりました。その後、上司の「昔はブラック自慢」≒「オレはやりきった自慢」は加速したようにも感じます(同書の意図とは別に)。
ただ、本来なら改善すべき「やり抜いてはいけない」ことまでやりきってしまうことは、害悪のほうが大きかったかもしれません。
もう一度、我々おじさん世代は、自分がやりきってきたことを客観的に振り返ってみるべきでしょう。そして、無駄と思うことをやりきらないことで工数削減を頑張っている(かもしれない)若者を、「昔はブラック自慢」で暗に非難するのは、もうやめたほうがよいのではないかと思います。
(この記事はOCEANS:連載「20代から好かれる上司・嫌われる上司」より転載)