2011年当時は、GyaO(現・GYAO)の社長とYahoo! ニュースの責任者を務めていた。3月11日の地震発生直後から多くのユーザーが情報を求めてYahoo! ニュースに殺到。翌12日は土曜日で、出勤している社員はごく少数だった。さまざまな情報が入り乱れるなかで、夕方から計画停電が始まるという一報が入った。
「まず東京電力からFAXで情報が入りました。でも、混乱状況だったせいか、FAXが斜めに送られてきて、一部が消えているんです。問い合わせても、まったくつながらない。最終的には内閣広報で確認が取れたのですが、内閣広報からの情報もFAXでね。それをみんなで急いでテキストに打ち込んで、速報を流したことを覚えています」
川邊は週明けの14日まで会社に泊まり込み、陣頭指揮を執った。Yahoo! ニュースの責任者として、役に立つ情報を提供すると同時にデマを流さないことを最優先に考えた。
一方、GyaOの経営者としては難しい決断を迫られた。福島第一原発の事故直後、放射能が東京にも降り注ぐという噂が流れたのだ。「出勤は社員の自主判断」という話も出たが、社員に判断を委ねるのは酷だと感じた川邊は、「全社員出勤停止」を決断した。
「放射能については何も確定的な情報がない状況でした。しかし、それを理由に何も決めないのは、リーダーとして最大の罪。限られた情報しかなくても、リーダーは方向性を示すべき。もし間違っていたら朝令暮改すればいい。そう覚悟を決めて判断しました」
情報が乏しかったのは今回も同じだった。感染拡大の初期はインフルエンザと変わらないという話もあり、情報は錯綜していた。しかし、それでもリモートワーク100%開放をいち早く決めた。ただし、「執行期間は2月末まで」と期限を設けた。期限を区切って随時更新する形にすれば、あとから間違いがわかったときにも柔軟に見直しができる。情報が少ないなかで決断を迫られた経験があるからこその知恵だった。
危機は足元ではなく、一歩先にある
危機に際して意識していることがもう一つある。大局観を持って動くことだ。今回で言えば、巣ごもり需要が高まるトレンドを見据えて開発リソースを集中させたことがそれにあたるだろう。
原点は、学生時代に立ち上げたITベンチャー、電脳隊だ。当初、電脳隊はパソコンのインターネットサービスの受託開発を行っていた。大手との取引も始まり、業績は順調に伸びた。
しかし、設立2年後の1997年に、パソコンから携帯電話へのシフトを決めた。
「iモードが登場したのは99年。その2年前に『これからは携帯電話のインターネットに絞る』とぶちあげました。取引先からは『学生ベンチャーで目をかけていたのに』と失望されましたよ。それでもシフトをやめなかったのは、パソコンのインターネットに大手の参入が相次いでいて、生き残れなくなる日が来ると考えたから。危機は足元ではなく、数歩先にあるんです」
その後、電脳隊はピー・アイ・エム(PIM)というジョイントベンチャーを経て2000年にヤフーと合併。川邊はYahoo! JAPANのなかでもモバイルシフトの主導的な役割を担い、18年には社長に就任した。モバイルシフトを果たしたあとも安堵する余裕はなかった。川邊の目には、すでに次の危機が見えていたからだ。