新型コロナは「敵」ではない。哲学者が説くウイルスとの「共生」

ライス大学教授のティモシー・モートン(Getty Images)


ウイルスと共生する時代の倫理は


ニューヨークタイムスは3月初旬、「コロナウイルスで世界経済はサバイバル・モードへ」という記事を掲載したが、世界中で先の見えぬロックダウンが続く今や、生活の全領域が「サバイバル・モード」へとすっかり変貌してしまった。しかし、モートンのエッセイが示唆するように「生」にとっては「alive」と「survival」の両義性こそが重要であり、ただひたすらに「生き抜く」ことだけを目指す硬直性は、むしろ私たちの「生」を破壊しかねない。


ロックダウン下のニューヨーク。人通りは少ない(Getty Images)

「感染者バッシング」や、感染拡大の初期段階にしばしばみられた中国人や日本人を含む東アジア出身者たちへの差別などは、モートンが語る「生」の「両義性」に配慮できなかった例だといえるかもしれない。生き抜くことだけを目指し、友を歓待することをやめ、新型コロナウイルスに感染する可能性を完全に排除しようと差別することは、反対に「生」を破綻させることに繋がるだろう。

モートンの哲学は、経済的損失を懸念するがあまり新型コロナウイルスの危険性を軽視し「活発に生きる」ことを求める主張にも、感染拡大を恐れて警察権力などを動員して人々を隔離することを強いる主張にも、そのどちらにも与しない。

あるモノの「美しさ」が一定の限度を超えてしまうと全てが台無しになってしまうように、「パンデミック」下の私たちの「生」もバランスを欠けばすぐさま壊れてしまうだろう。モートンのエッセイは「美とはウイルスである(Beauty is a virus)」という詩的な命題で閉じられているが、ここにはウイルスとの「共生」が求められる「パンデミック」下のわれわれの「生」が、いかに慎重に気遣われねばならないかというメッセージが込められているといえる。

今まで見てきたように、モートンが批判しているのは、私たちの「生」を「alive」か「survival」かという硬直した二元論に押し込めてしまう議論のあり方そのものだ。そうだとすれば、どちらにも偏らない「生」への気遣いこそが、コロナウイルスと「共生」する時代の倫理の導きの糸となるのではないだろうか。

文=渡邊雄介

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