このような現実の中で、コロナウイルスとの「共生」について語るモートンの議論が示唆しているのは、今地球上で起きていることは、政治家たちが「友敵」のレトリックを用いて描くほどには単純ではないということだ。「コロナウイルス」は、実際にはマクロンがそう呼んだように端的に「敵」として人間と対立しているわけではない。それは他の存在者らと絡み合いながら生態系の一部を成しているのだ。

「友敵」を強調すれば、社会的分断につながる


「友敵」のような対立構造は、新型コロナウイルスの問題を考える場合に必ずしも適したレトリックとは言えないのではないか。社会的なレベルでみても、指導者たちによる「友敵」の強調は、悪くすれば「感染者バッシング」や感染が疑われる人々の差別へとつながりかねない。過度に社会的分断を煽る可能性をもつレトリックを、積極的に用いるべきではないだろう。

とはいえ、人間社会に甚大な被害を与えているコロナウイルスを手放しで迎え入れることなどできない。コロナウイルスと人類にいかなる「共生」が可能なのかという困難な問いは、何れにせよ残ったままだ。


哲学者のティモシー・モートン(Getty Images)

この問いを考える上でモートンは、ウイルスの「宿主」という意味がある英語の「host」の語源となったラテン語の「hostis」が持つ両義性に注目する。

「生とは両義的なものなのです。ラテン語hostisは、主人、客人、友人、敵を意味します。したがって『歓待(hospitality)』とは、あなたがドアを開く相手は殺人鬼かもしれないということを意味しています。私は死にたいとは思わないし、このウイルスによって誰にも死んでほしくないです。しかしここで私は『活発に生きる(alive)』ということが『生き延びる(survival)』ことと対照的に何を意味しているのかを理解したのです」

モートンによれば、「コロナウイルス」との「共生」とは、友であるかもしれないし、殺人鬼であるかもしれないものとの「共生」を意味している。タイトルの“Thank Virus for Symbiosis”という面食らうような表現も、「Thank friends」という常套句を「Thank virus」と言葉遊びすることで、そのことが含意されていると思われる。

「生とは両義的なものなのです(Life is ambiguous)」とモートンが述べるとき、そこでは本質的にこのような両義性をもつ存在との「共生」が含意されている。

一方で、もしあらゆる友人に対して感染者ではないかという疑念を抱き、彼らの全てを拒絶してしまったとしたら、わたしたちの生活は生き生きとするどころかおそらく破綻してしまうだろう。しかし他方で、コロナウイルスは殺人鬼でもありうる。したがって決して部屋のドアを開けてはならず、わたしたちは引きこもることでコロナウイルスを遮断し、生き延びていかなくてはならない。

モートンによれば「生(life)」とは、「alive」と「survival」が織りなすこのようなジレンマそのものであり、どちらか一方に偏ってしまっては、われわれは「生」を失うことになる。「生」の意味がもつこの「両義性(ambiguity)」に配慮することこそが、モートン流の「生の哲学」が重要視していることだ。

文=渡邊雄介

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