壮絶な幼少期を乗り越え、国民的司会者へ。オプラ・ウィンフリーの半生

オプラ・ウィンフリー(Getty Images)

フォーブスが2019年12月に発表した「世界で最も影響力のある女性」ランキングで20位にランクイン、16年6月の「アメリカで最も成功した女性」では2位となったオプラ・ウィンフリー。

11年まで放送された、アメリカで高い人気を誇った番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』の敏腕司会者として名を挙げ、実業家、慈善家、女優としても活躍している彼女の半生を振り返る。

壮絶な幼少期


1954年、アメリカ・ミシシッピ州で生まれたオプラ・ウィンフリー。本名はオーパ・ゲイル・ウィンフリーで、PとRを間違われて「オプラ」と呼ばれていたことから、オプラの芸名が誕生した。

若い未婚カップルの元に生まれたオプラは、親族や知り合いから虐待を受けていた。9歳から性的虐待を受け、14歳で出産、未熟児の子供は出産後すぐに亡くなってしまったことを明かしている。

高校生の頃からラジオ局で働き、74年、19歳でテネシー州のTV局に就職。76年にはメリーランド州ボルチモアにあるTV局で、夜のニュース番組のキャスターに採用された。

火事のニュース原稿を読み上げた際に、感情移入して泣いてしまうなど、ニュースに向き合う姿勢とアドリブが話題を呼んだ。

その後、朝のニュース番組や昼間のトーク番組に抜擢され、84年にシカゴのTV局で『AM Chicago』というトークショーを担当。85年に番組名は『オプラ・ウィンフリー・ショー』へと変更された。

オプラ・ウィンフリー・ショー


2011年までの25年間で、計4561回放送された『オプラ・ウィンフリー・ショー』は、スピリチュアルな話題など、幅広いテーマを取り上げ、多くの視聴者から支持を得た。彼女が番組内で紹介した本は軒並みベストセラーになったという。

観客席の一般市民に車やテレビ、旅行などの豪華ギフトを無料で贈る特別エピソード「Favorite Things」も人気を博した。俳優や政治家など様々なゲストが登場し、歌手のセリーヌ・ディオンは番組最多の27回出演した。

世界145カ国でオンエアされ、視聴者の平均数は1日に1000~2000万人にのぼった。番組が放送された25年間の間に視聴者から番組に届いた手紙の数は2000万通を超えるという。

実業家としての一面


敏腕司会者として活躍する傍ら、オプラは1986年にマルチメディア制作会社「ハーポ」を設立。TV番組制作を始め、雑誌『O, the Oprah Magazine』を発売した。

また、『オプラ・ウィンフリー・ショー』終了後の2011年には、ハーポ傘下にてケーブルチャンネル局の「OWN(オプラ・ウィンフリー・ネットワーク)」を開局。18年にはアップルとコンテンツ制作に関する契約を結び注目を集めた。

慈善団体「エンジェル・ネットワーク」


オプラは1998年、慈善団体「エンジェル・ネットワーク」を設立。女性の社会的地位の向上や、より多くの子どもへ教育の機会を与えるため、12カ国に55もの学校を建設した。視聴者からの寄付も多く、2010年の活動終了までに8000万ドル以上の資金がエンジェル・ネットワークに集まったという。

また、子どもの権利を訴える活動家として、94年には国会に児童虐待の有罪判決をデータベース化する法律を提案。この法律は当時のビル・クリントン大統領の元、制定に至った。

女優としても活躍


オプラは女優としても名高い。TVドラマはもちろん、1985年に名作映画『カラーパープル』、2014年に『グローリー/明日への行進』に出演。アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞、エミー賞、ピープルズ・チョイス賞など、名だたるアワードでのノミネートや受賞を果たしている。

20年3月にはトークイベント「2020 Vision: Your Life in Focus Tour」を開催。惜しくもアカデミー賞を逃した女優ジェニファー・ロペスがその心中を語ったことで話題となった。最近ではコロナウィルスの感染拡大の影響を受け、特別番組「Oprah Talks COVID-19」で司会を務めた。

文=齋藤優里花

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