国際政治や経済状況、そして災害によっても、世界は容易にくずれ流動化する。今日の株価が順調であっても、明日は大暴落するかもしれないし、いまは安全なくらしができていたとしても、明日は地震やテロにみまわれるかもしれない。
現代という時代には、表面上の楽しさや利便性とはうらはらに、底流には不安定な不確定性がいつも流れている。
鳥原氏の本からさらにつづける。
「しかし現在の私たちは、この流動化した社会のなかで、それぞれが著名的な他者の顔色を探りながら安全な場所を探さなければならない。ことに男性にくらべて社会的に比較的弱い立場に置かれた若い女性は、社会で働くのも結婚生活にも、大きなハードルがいくつも待っている。それは思春期のころから意識せざるをえないことなのでしょう」
「ポートレイト写真とは、本来的に写された人物のアイデンティティのあり方、つまり自分は何者かということと深く関わるものです。しかし流動化した社会の中では、人々のアイデンティティもまた短期的に変わっていかざるを得ないし、それにつれて望ましいイメージも違ってくるはずです。(中略)自撮りもプリクラもコスプレ写真も、これらはとても遊戯的なものに見えますが、それらの写真には、先の読めない時代を必死で生きていこうとする切実さが込められているのです」
いまの時代を生きる若い世代に鳥原氏はエールを送り、この青少年向けに書かれた本はおわっている。
先読みの可能な時代であり社会であれば、私たちは自分なりのビジョンを持ち、そのビジョンの実現にむけてがんばりもできよう。
しかし時代の先行きが不透明なときは、よくわからない未来のことなど、とりあえずは保留にして、まずはいまこのときのなかに楽しみを見つけたい。このいまを生きることにフィットする私を、とりあえずの「わたし」として感じとりたい。
1カ月先のことはわからない。社会状況や世の中の価値観などというものに普遍性などはなく、すぐにちがうものになっていくというのであれば、あらたな状況になればなったらで、その状況下で生きのびるための「わたし」へと、さらに自分自身をコスプレしていけばよい。
年齢をかさねたひとであれば、過去の記憶というよりどころも見いだせる。だが若いひとにはそんな過去の蓄積はない。
自撮りもプリクラもコスプレも、さきの読めない時代のなかで、せめて、いまだけでも充実して生きていこうとする、若い人びとによる時間感覚の切実な選択の結果なのかもしれない。
軽いフットワークで流行の波にのり、「わたし」を時代の変化にあわせて変身させていくことが、けっして軽はずみなふるまいではなく、時代を生きぬくための知恵なのだと、『写真のなかの「わたし」』の著者は結論づけている。
森村泰昌著『自画像のゆくえ』(光文社新書)