「周りと同じことをしていては埋もれてしまう」という危機感
──今回のケニア合宿もそうですが、早稲田大学在学時からアメリカでトレーニングをしたり、卒業後は、日清食品グループと所属契約をしていた1年間の間にも、ナイキ・オレゴン・プロジェクト(アフリカ系選手と対等に戦えるアメリカの長距離走選手の強化を目的とした陸上チーム)に籍を置いたりと、まさに道なき道を拓いてきた印象です。
周りがやっていないことをしなければいけないという思いは、常々ありました。というのも、トップ層で戦う日本人選手の間には、おそらくタレントの差なんてないんです。
その中から突出していくためには、みんなと同じ環境で同じことをしていてはいけない。特別な環境で特別な経験をしなければ、埋もれてダメになってしまうという危機感がありました。
──危機感は、いつ頃から抱いていたものですか。
高校時代からです。みんな一緒という違和感や危機感は常々あり、「なんで彼らに合わせた練習をしなければいけないの?」「それじゃ全然速くならないよ」と思っていましたしね。大学時代には、いちアスリートとして海外でやってみたいという気持ちが芽生えていたので、トレーニングメニューに更に疑問を感じるようになっていました。
大学のチームの多くは、箱根駅伝を走る・箱根駅伝で勝つということが大前提に考えられているんです。そうなると、走れる選手を10名揃える必要が出てくるので、トレーニングメニューの構成も自ずと、中間層に合わせたものになる。個人の能力を伸ばしていくという観点でいけば、「これって自分のためになるの?」と考えるようになりました。
一方でこれは、現状に対して疑問を持つという意味では、良い環境だったとも思います。それに、大学のチームが悪いというわけではなくて、箱根駅伝で勝つ目的で作られた場所に、個人の能力を伸ばすという目的を持った僕が入ったこと自体が違っていたのかなと、今は思いますけどね。
既存ルートに乗らない挑戦をしてきたのは、「将来が見えてしまった」から
──海外へという思いを抱きつつも、大学卒業後は実業団へ。しかし1年で所属契約を解消して、アメリカでのナイキ・オレゴン・プロジェクトに加入されます。プロとして生きるということは、安定した収入を手放す決断でもあったと思いますが、恐れはなかったですか。
とりあえずやってみようという気持ちの方が強かったですね。むしろ、日本にとどまって実業団で走り続けることの方が、生じるリスクが高いと考えたんです。定年まで走り続けられるわけではないし、仕事で会社に貢献できるのかと言われれば、難しい。工場や営業現場に行っても役に立たないですよ。将来が見えてしまったことの恐怖があって、外に出るしかないと。安定よりも、挑戦を選びました。
実業団で走る先のゴールは見えている。自分が選ぼうとしている道は、ゴールすら見えないけれど、行ってみようと思いました。でも実際、ゴールがあるとかないとかではなくて、自分が選んだ道に集中していると、見えてくるものはある。今は、社会人1年目で決断して、日本を出たことは良かったと思っています。