アートやファッションの展覧会を裏から支える夫婦の物語

「亜洲中西屋」の中西多香社長と大輔副社長


2人は口を揃えて、ヤング・エグゼクティブ市場に切り込む新雑誌を「ピンと来る仕事ではなかった」と振り返るが、同誌で結果を出し続けた。

ページ単価120万円のバブル期に、多香氏はデスクを務め、大輔氏は広告部で「1人で月5000万円の売上」をあげていた。結婚を期に多香氏はUPUの本丸へ。大輔氏はほどなく編集部に異動し、足かけ10年を「エスクァイア日本版」で過ごした。


「エスクァイア日本版」の90年代の表紙 画像提供:亜洲中西屋

ポジティブな3年間の別居生活


1997年、34歳の多香氏は、思いがけず香港のヤクザ映画『男たちの挽歌』に出会う。公開から10年が経っていたが、それを機に香港映画にドハマリ。その勢いで、貯金を叩いて香港に語学留学する。3カ月ということで、大輔氏も快く送り出した。

その間にアジア通貨危機が起こり、香港に滞在したい気持ちと懐事情に悩むなかで、多香氏は香港の伝説的デザインショップ「曼陀羅」に出会う。

当時、香港で唯一アート&デザイン系を扱っていた「曼陀羅」は、日本関連を中心に感度の高い書籍や雑貨を揃えており、映画監督のウォン・カーウァイがアイデア探しに来たり、シンガポールからわざわざ訪れる客もいるなど、クリエイターに影響力を持つ店だった。


「曼陀羅」の店内 画像提供:亜洲中西屋

店に通っているうちにオーナーと仲良くなり、そのまま就職。その傍ら、前職のキャリアや“香港ツウの日本人”であることを活かして、香港に来る日本の雑誌やクリエイターたちのコーディネートも行った。大竹伸朗氏や藤原ヒロシ氏にもその頃に出会ったという。

数カ月レベルの香港語学留学は、いつのまにか長期の別居生活に変わっていた。

だが大輔氏はこれを止めなかった。というのも、大輔氏もエスクァイアを離れてから、「24時間、仕事にのめり込む」ほど忙しかったからだ。撮影監督のクリストファー・ドイル初の写真集『バックリット・バイ・ザ・ムーン』の編集を手掛けた後、1997年(32歳)にリトルモアに入社。文芸誌「リトルモア」の創刊編集長になると、2003年に休刊するまで、多くの単行本の編集&ディクレションに携わった。


「リトルモア」編集長時代の表紙。今でも付き合いが続くクリエイターの名が並ぶ 画像提供:亜洲中西屋

『日々の考え』(よしもとばなな)や『スーパーダイアローグ』(福田和也)、『かくしてバンドは鳴りやまず』(井田真木子)、『会見記』(内田也哉子)、『アクロバット前夜』(福永信)など、90年代後半から2000年代前半の日本の文学を彩る作家たちの作品を多く手がけた。
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文=砂押貴久

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