かつては金属製屋根の設計施工を主業とする下請けの「屋根屋」だった同社が、どうやって従来の業態を超越し、未来の扉をこじ開けたのか。そのプロセスを知ることは、逆境に直面するすべての企業にとってビジネスのヒントとなるはずだ。
屋根の上から未来が見えた
「俺、経営者としてバカやったんよ」
グランプリ獲得から1カ月後、喫茶店で無邪気にそう話す川口信弘と向き合っていると、夏目漱石の『坊っちゃん』の有名な冒頭を思い出す。〈親譲りの無鉄砲で子どものときから損ばかりしている〉だ。
「工場とか産業用の屋根の業界では、九州で2位くらいになったんよ。年商60万円で始めて、売り上げが100倍になれば、利益も100倍になると思ってたからバカやね。会社が大きくなると、どんどん苦しくなって、このままいったら自殺に追い込まれると思ったくらい。37、8歳のころたい」
工場や大型施設の金属製屋根を設計・製造・施工し、従業員は12人。大手ゼネコンの九州支社から受注することで売り上げは伸び続けた。が、「よその見積もりはもっと安い」と、天秤にかけられ続けたという。
「いつも目の前にニンジンをぶら下げられて、全速力で走らせられている奴隷やね。“請け負い”って、請けて負けると書くやろ?どんなに頑張っても下請けは下請け。大きな仕事を請け負っても、赤字になることもある。会社が大きくなればなるほど、資金繰りがきつくなったね」
川口スチール工業のルーツは1930年。川口の祖父が始めた雨樋の製造取り付けである。しかし、二代目となった川口の父親が79年に重病で寝たきりとなり、会社は長期にわたり休眠状態となった。川口が中学2年のときだ。
「スポーツ万能で目立ちたがり屋」だった川口は地元の工業高校を「つまらなくて」と、1年で中退。16歳で屋根職人に弟子入りして23歳で独立した。
「26歳ごろから会社は軌道に乗って、ピーク時は下請けの職人を100人くらい使っとった。でもね、俺は心底、下請けが嫌やったね」
そうして2008年、リーマンショックが起きた。