幸嘉は75年に有機野菜の産直システムを構築した人物である(法人化は82年)。有吉佐和子の小説『複合汚染』が社会現象となる大ベストセラーになり、環境への危機感が高まったころだ。歌手・加藤登紀子の夫、藤本敏夫らによる有機農産物の販売団体「大地を守る市民の会(現在のオイシックス・ラ・大地)」の設立もこの年である。
「義父は早くから農業をシステムとして見直していこうと提唱し、実践する理論家でした」と、朝霧は言う。
幸嘉は岡山の貧農の家庭に生まれ、島根大学農学部を中退。生協の本部で野菜の仕入れを担当しながら、産地をまわるうちに川越にたどり着いたという。江戸時代から「小江戸」と呼ばれて江戸に農産物を供給する産地だった川越は、昔から落ち葉堆肥を使った伝統的な有機農法が続いており、この農家たちと産直を始めるのである。
協同商事は農協・卸・物流の機能をもち、作物の選別、パック詰め、配送、保管の作業や、当時としては画期的な冷蔵車による「コールドチェーンシステム」の先駆者となった。そうして全国の産地とネットワークを築き、急成長をしたのだ。
「義父は、経営者も従業員も農家も消費者も協同で進んでいこうという考えから、この社名をつけました。いずれ先進国の大量生産のものづくりは賃金の安いアジアに移ると言い、日本は農業を見直すことで、付加価値の高いものが消費者に受け入れられるようになる、手づくり産業がものすごい価値を生むというのが持論でした」
スイスの高級腕時計のように、一時は日本勢に負けたものの、付加価値を高めれば世界に通じる産業になる。日本もここを目指すべきだというのだ。この協同商事に高校時代、原付バイクに乗って集荷センターでの梱包のアルバイトに来ていたのが朝霧だった。
2003年、朝霧は29歳で副社長に就任するや、危機に直面した。この年は「地ビールブームが終焉した年」と言われている。
「義父は良質な素材を加工して丁寧なものづくりをすれば、農業は一次産業の枠を超えると言い、1980年代からビールづくりを研究していました。94年の酒税法改正で小規模事業者のビール製造が可能になると、『小江戸ビール』を発売したのです」