政治家としては「障害の有無を問わず、誰もが幸せになれる社会づくり」をビジョンに掲げ、政策提言などを行っている。
Forbes JAPANの連載「#分断に思う」では、舩後議員のインタビュー前編で、知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件について、自身の経験からその背景について探った。
後編では、舩後自身がALSを発症してから現在に至るまで、どのように「幸せ」を掴み取ってきたか、半生を振り返る。さらに障害者と健常者を「分断」させないためにも、舩後が考えるこれからのインクルーシブ社会のあり方とは──。
働き盛りだった42歳の夏、突然のしびれ
舩後は1957年に岐阜市で生まれ、10歳ごろから千葉に引っ越した。高校時代からギターに熱中し、友人と一緒にバンド活動に明け暮れていた。大学卒業後は、時計や宝石を輸入する専門商社で働き始めた。
仕事にも熱中し、輸入したダイヤモンドの加工販売などで年間6億円もの売り上げがあった。1986年に結婚し、その3年後に長女が生まれた。
それから約10年。働き盛りだった42歳の夏、突然箸や歯ブラシ、ペンがうまく握れなくなり、脱力感や腕のしびれなどを感じるようになった。翌年の2000年5月にALSと診断された。
当時トップセールスを誇っていた舩後だが、ALSを発症したと知って会いに来てくれた同僚は、わずか4人だけ。「多くの同僚たちが、実社会から陥落した私を、憐れみの目で見ていたのだと感じました。この時点で、同僚たちは自分の優位性に浸っていたのかもしれません」。
そして舩後は、どん底から社会復帰を目指したという。その道のりは、自らが「障害者が健常者との距離を縮めるため」歩んできたと振り返る。