2019年末、建国門外のホテルで行われた中国社会科学院との共催シンポジウムで、私は80年代の日米摩擦について、かなり踏み込んで言及した。経済学の泰斗から大学院生まで、熱心に聞き入り、質問が切れ目なく寄せられた。
その夜、旧知のA博士に誘われた中華料理店は、金曜日だというのに客席に人はまばらである。前年とは様変わりだ。昨今の贅沢抑制ムードだけではなく、経済全体に閉塞感が出てきたからなのだろうか。
博士は友人を伴っていた。名刺には政府要人を示す肩書が記されている。艶々した顔色で声に張りがある。澱みなく抑揚のある弁舌はなかなかのものである。日本語学習ブームの少年時代を過ごしたという。羊尽くしの内蒙古料理にいささか飽きてくると、話題は米中問題に転じた。
「米国など全然恐れていない」。要人は自信満々に自説を展開した。「5Gでは中国方式が世界標準になる。AIもロボットもドローンも世界最高レベル。フィンテックや宇宙開発は着実に進んでいる。米国市場がなくても、13億人の巨大消費市場を内包化しつつある。昨年はイタリアと広範な経済提携を結び、ついに一帯一路がローマにまで延びた。古代シルクロードが現在に蘇ったのだ。南米と緊密だし、なによりアフリカ全体が中国の友人だ。ロシアとはもちろんよい関係で、欧州とも悪くない。米国こそが世界の孤児なんです」。
彼の主張はしかし、この次にこそあった。「昨日、安倍晋三首相が訪中された。日本は米国に懲りているはずだ。東アジアが世界をリードしていく時代です。貴国もわが国と手を組んで頑張っていきましょう」。
黙って聞いていたA博士が立ち上がる。彼は、尖閣問題勃発直前に、アジアインフラ投資銀行、今日のAIIBへの日本の参画を提案していた人物である。博士は傍らの大きな包みを取り上げると「川村先生との長年の友誼に感謝して、プレゼントを用意しました」。一巻の巻物である。開くと墨跡も鮮やかな書だ。『海納百川』とある。「大小百の河川も海はすべてを納めきる。林則徐の座右の銘です」。
海は川より低姿勢で、どんな川でも受け入れる。海が川を拒まないから、急な河川も氾濫することがない。そして、海はどんな大河よりも遥かに広大である。
A博士が微笑む。「中国も日本も米国も川です。全てを海は納めます。今世紀を海の時代にしたいものですね」。
川村雄介◎1953年、神奈川県生まれ。大和証券入社、2000年に長崎大学経済学部教授に。現在は大和総研特別理事、日本証券業協会特別顧問。また、南開大学客員教授、嵯峨美術大学客員教授、海外需要開拓支援機構の社外取締役などを兼務。