復興は誰のため?「最後のひとりが仮設住宅を出るまで」石巻で新聞を配る編集長が拾う声

3年ぶりに再会した岩元暁子さん。スヤスヤと眠る息子を抱えて現われた =都内で撮影


石巻きずな復興新聞を配る岩元暁子さん 

息子が誕生。最後のひとりを見送ったこれからの話


岩元さんたちは「最後のひとりが仮設を出るまで」とこれまで駆け抜けてきた。「ピースボート災害ボランティアセンター」による前身の新聞発行・配布を引き継ぎ、「石巻復興きずな新聞舎」の団体設立から4年がたった。

「最後は仮設住宅から追い出した感じがあり、残念だった。一方で、これまでもう継続は難しいと思う瞬間が何度もあったので、くぐり抜けることができてよかった。ここまで続けてこられたのは、支援者やボランティアさんのおかげで感謝しかありません」と振り返る。

仮設住宅がゼロになったいま、岩元さんは「実は活動をやめてもいいかなってちょっと思っていました。団体としても、仮設住宅が無くなるまで頑張ろうねと言ってきたため、ゴールがなければ長く活動は続かないと思いました」と明かす。これまで国の助成金や補助金などを取得して活動を続けてきたが、今後は無くなる可能性もある。

一方で、支援団体として継続していることが認められ、2018年には被災地支援活動として「グッドデザイン賞」を受賞、2019年にはソロプチミスト日本財団の「社会ボランティア賞」も受賞した。活動に賛同し、支援する個人や企業、団体の賛助会員も徐々に増えてきた。

岩元さん自身はこれまで、子育て中でありながらフルタイムで編集長として紙面作りから発行までの指揮をとってきた。2019年9月からは発行日の前日に首が座ったばかりの生後3カ月の息子を抱っこして、自ら配布もしている。



長男には「結登(ゆいと)」と名付けた。「石巻での人との繋がりにすごく救われたし、人と人との繋がりを大事にしてほしい」という岩元さんの願い通り、人見知りしない息子は、よく笑う。配布先の住民たちからは「いつでも面倒見てあげるからね」と言われる。

ちょうど1時間半の取材を終えると、スヤスヤと抱っこ紐に包まれて眠っていた結登君が目を覚まし、私にも笑顔を見せてくれた。

岩元さんはスタッフと話し合い、ある決断をした。この4月からは、毎月ではなく3カ月に1回、新聞を発行することにしたのだ。発行月は、6月、9月、12月、3月の4回。岩元さんは毎月半分ほど石巻に住んでいたが、これからは東京での生活が中心になる。

「これまで9年間はゴールに向かって走ってきましたが、これからの道のりは長距離走です。石巻は第二の故郷なので、子供の成長を住民の方たちに報告しに行くような気持ちで、ライフワークとして長く続けていきます」

石巻では「復興住宅」と呼ばれる災害公営住宅のほか、2020年度末までに「石巻南浜復興祈念公園」が整備され、「復興」の象徴として捉えられるだろう。だが、岩元さんはこんな願いを込めて石巻と関わり続ける選択をした。

「建物や堤防などハード面が復興したと注目されることが多いですが、そこに暮らす人たちがいて、それぞれ暮らし向きは異なります。建物が完成したからって『復興なんだね』と言うのは違う気がします。被災地での暮らしや新たな課題にも目を向けてもらいたいですね」

「復興」とは、一度衰えたものが再び盛んな状態になることだが、何をもって「復興」と言うのか。この答えについては、人それぞれの考え方があるだろう。

だからこそ、言葉が持つイメージに惑わされてはいけない。被災地も被災者も均一ではない。岩元さんは、これからも石巻の人々の心とコミュニティの「復興」を目指して活動を続けていく。

文=督あかり

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