不遇の環境を乗り越え、世界的実業家へ 孫正義の成功までの道のり

ソフトバンクグループ会長兼社長 孫正義

フォーブスの日本長者番付で、2017年、18年と2年連続で首位を獲得した、ソフトバンクグループ会長兼社長の孫正義。

創業から現在に至るまで、事業規模を拡大させ続けている孫の生い立ちや学生時代から、華々しいキャリアを築き上げてきた道のりをたどる。

佐賀県の無番地で生まれ育つ


孫は在日韓国人実業家の4人兄弟の次男として、1957年8月11日に、佐賀県鳥栖市の在日韓国人の集落に生まれた。国鉄の土地を不法に占拠して住み着き、住所は番地のない「佐賀県鳥栖市五軒道路無番地」だった。

孫の父は養豚や焼酎の密造で家計を支えていたが、家はトタン屋根の粗末なもので、生活は決して楽ではなかった。

忙しく働いていた両親の代わりに、孫の面倒を見ていたのは祖母だった。孫の祖母は14歳の時に日本に渡り、太平洋戦争を生き延びた経験もある。

孫が3、4歳だった頃は、祖母の引くリヤカーに乗って毎日のように散歩していたが、それは豚の餌にするための残飯を近所の人からもらうためでもあったという。

高校を中退して渡米


孫が中学生の頃、父の仕事が好転しはじめ、一家の暮らし向きは改善した。しかし、一家に新たな試練が訪れる。父が吐血して入院したのだ。家計を支えるために、孫が学業を諦めかけたこともあったようだが、1歳年上の兄が高校を中退して家計を支え、父の入院費のサポートをした。

中学生だった孫は、一時的な解決策ではなく中長期的に家族を支えたいと、事業家になることを決意。当時、事業家になるためにはアメリカで学ぶことが必要だと考えた孫は、母親や親戚からの反対を押し切り、進学校として有名な久留米大学附設高等学校を中退して渡米。

アメリカではまず、オークランドのホーリー・ネームズ・カレッジの英語学校に入学。その後、サンフランシスコのセラモンテ高校に編入学をすると、3年生、4年生と飛び級をして、高校卒業検定試験に合格した。

75年にホーリー・ネームズ・カレッジへ入学、77年にはカリフォルニア大学バークレー校のへ編入学を果たした。

孫は大学在学中に発明した自動翻訳機をシャープに売り込み、1億円の資金を得る。それを元手にソフトウェア会社である「ユニソン・ワールド」を設立。日本からインベーダーゲームを輸入、販売するなどの事業を展開した。

80年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業し、81年に日本ソフトバンク(現 ソフトバンクグループ)を、96年には、「Yahoo!JAPAN」を設立した。

生い立ちや国籍による苦労


在日韓国人3世とし生まれた孫は、16歳で渡米するまで「安本正義」と名乗っていた。

一家全員が戸籍に登録されている孫という苗字ではなく、通名である安本を名乗る中、ただ一人孫と名乗ることを決めたことに対し、親戚からは大きな反発があった。

「孫 正義」という名前で生きていくことを決めた理由について、「今まで自分が悩んできた国籍や人種のことで同じように悩んでいる人たちがたくさんいるので、立派な事業家になって、孫正義の名前で人間はみんな一緒だと証明してみせるためだった」と、2010年の「ソフトバンク新30年ビジョン発表会」で語った。

15年の講演の際には、「僕は十数年前にやっと、泣きたいほど望んで日本国籍をいただくことができました。今でも自分が何人かよくわかりません」と語っている。

生い立ちで苦労してきた孫は、19歳の時に人生50年計画を立てていたという。

それは、「20代で業界に名乗りを上げる。30代で軍資金を貯める。40代で一勝負して、何か大きな事業に打って出る。50代でそれをある程度完成させる。60代で次の経営陣にバトンタッチし、300年以上続く企業に仕上げる」というもの。

40代でソフトバンクを東証一部に上場させ、ボーダフォン買収により携帯電話事業に参入するなど、10代の時に立てた計画を着実に実行している。

幼稚園時代には「朝鮮人!」と呼ばれて石を投げられてケガをしたことも、小学生、中学生の時には、自身の生い立ちに対する差別に悩み自殺をしようと思ったこともあったという。逆境をバネに世界的な実業家として活躍する姿は、実業家を志す人、また、恵まれない環境で苦労している人たちに勇気を与え続けている。

文=谷村光二 写真=gettyimages

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