「滅多に見なくなってしまったフェイスブックで、ご病気のこと知りました。病気はケースバイケース、お互い頑張ろうなんて陳腐なことは言いません。でも、がんが持病になっちゃった人にしかわからない思いや覚悟や発見を、二人でしゃべれたら嬉しいな。無理のない範囲で元気になったら(なるよ!)是非」
これが私への最後のメッセージとなった。
体力戻ってきたら会いにいくね、と伝えた矢先のことだった。なにが体力戻ってきたら、だ。這ってでも会いにいけばよかった。ごめんなさい、ユキちゃん。
「北風さんには病気に勝ってほしい」
ショックを受けていたら、ご遺族から、遺言に「社内報の追悼文は北風さんに書いてほしい」とあったので、葬儀でもお別れの言葉をお願いしたい、とお話をいただいた。お母様から、ユキちゃんが私の書く文章が好きだと言ってくれていたことを伺った。
追悼文は、生前に会えなかったから、ちゃんとお別れする機会をくれたのだと思う。自宅でお別れの言葉を書いて、読む練習をしたが、涙が止まらなくて、ちゃんと読めなかった。泣けて、泣けて、どうしても読めなかった。
遠くの葬儀場まで、どうやって行ったものかと思案していたのを察知したかのように、これまた私たちと新入社員のとき同じ研修班だった木原くんが、往復クルマに乗せてあげると連絡をくれた。ありがたかった。
私は、傷が痛くてシートベルトを手で持ち上げて浮かせていないとダメだとぼやき、木原くんは、このクルマのナビは使いづらいとぼやき、でもちょっとした自動運転をしてみせてくれて、ほー、と感心したりしているうちに、葬儀場についた。
ユキちゃんは、生前に「万一ノート」という遺言を残し、そのなかで自分のお葬式についても細かくプロデュースしてあったそうだ。すごいパワーだ。祭壇の花も、華やかだった。ユキちゃんの好きなフィンランドブルーであふれていた。
お別れの言葉は、ユキちゃんの遺影を見ながら、なんとか読み切った。ご主人に「北風さんには病気に勝ってほしい」と言われた。Tくんの高校の友達が、100人以上参列していた。
帰宅後、親友で医師のMとLINEで話した。思わず、乳がんを経験しても長生きする人っているのかなあ、とつぶやいてしまった。