ところが、厳しい経験こそが大切だと、私の取材で語っていた成功者は少なくありませんでした。
京セラの創業者、稲盛和夫さんもその1人です。稲盛さんは、こうも言われていました。「苦労や試練に遭ったときには、むしろ幸運と思いなさい。自分が幸運だったのは、苦労をせざるを得ないような状況に追い込まれたことだった」と。
人生の明暗を分けたものとは
稲盛さんは、戦後日本を代表する起業家の1人です。1959年に京セラを設立し、当初はベンチャー企業だった会社を急成長させました。そればかりではなく、新たな挑戦にも果敢に踏み出し、1984年には第二電電(現KDDI)を設立、通信分野にも進出します。そして、その優れた経営手腕は、後に、経営破綻したJALの再生でも発揮されました。
そんな稲盛さんですが、人生のスタートは苦しいものでした。中学受験に失敗、結核を患い、空襲によってすべてを失い、ようやく故郷である鹿児島の大学に入ったのですが、卒業時には就職すらままならなかったといいます。
大学では成績も良かった。これならいい会社に入れると誰もが言ってくれていたのに、やってきたのが大不況。大学の先生がようやく見つけてくれたのが、京都の小さな会社でした。入社すると、会社は赤字で、労働争議は頻発、給料もいきなり遅配。同期入社の5人は次々に辞めていきました。
自分の人生はどうして何をやってもうまくいかないのか。思い悩んだ稲盛さんですが、ここで考え方を変えます。いつまでもクヨクヨしていても仕方がない。希望を捨てず、素晴らしい未来があると信じて、仕事に打ち込んでみよう、と考えたのです。
配属されたのは、当時、新分野だったファインセラミックスの開発。満足な実験装置もないなかで自分を励まし、寮から鍋、釜、布団、七輪まで持ち込み、研究室で朝から晩まで実験三昧の毎日を送りました。
すると、目を見張るような実験結果が次々と得られるようになります。このときのことを、稲盛さんは、こんなふうに語っていました。
「1人取り残され、心の持ちようを変えた瞬間、人生は転機を迎えました。人生の明暗を分けたのは、運不運ではなく、心の持ちようだったのです」
新材料の開発と事業化に成功、さらには支援者が現れて、新会社を創業することになります。これが京セラです。後に、売り上げが1兆円を超える会社になるなど、当時は想像すらできなかったといいます。