帝国はどう築かれたのか
アルノーはフランスの北部工業都市ルーベで生まれた。幼い彼が最初に愛したのは音楽だったが、プロのピアニストになる才能には恵まれなかった。代わりに、1971年にフランスの工学系名門校を卒業し、父親の経営する建設会社に入った。祖父が地元ルーベで創業した会社だ。
この年にニューヨークでタクシー運転手と交わした会話が、現在のLVMHを生んだ、とアルノーは言う。アルノーは運転手に、フランスの大統領であるジョルジュ・ポンピドゥーを知っているかと尋ねた。「いや」と運転手は答えた。「でも、クリスチャン・ディオールなら知ってるよ」。
81年、企業に敵対的な社会党のフランソワ・ミッテラン政権が発足すると、一族の会社を経営する立場となっていた32歳のアルノーはフランスを去り、米国へ移り住む。まずは自社の米国展開を行ったが、その野望はより壮大なものだった。
84年にクリスチャン・ディオールが売りに出されたのを知ると、アルノーはそのチャンスに飛びついた。ディオールの親会社だった繊維会社マルセル・ブサックが資金難に陥り、フランス政府が買収希望者を探していたのだ。アルノーは一族の資金から1500万ドルを出資し、フランス系投資銀行のラザードが買収価格の残り8000万ドルを出した。
報道によると、アルノーは当時、ブサックの事業を回復させて雇用を維持すると宣言していた。しかし実際には9000人の従業員を解雇し、事業の大部分を売却して5億ドルを手に入れた。もともとアルノーに批判的だった人々も、その臆面のなさにはたじろいだ。メディアがアルノーを「カシミアを着た狼」と呼ぶゆえんである。
アルノーの次の獲物はディオールの香水部門だった。同部門はLVMHに売却されていたが、そこのブランドトップ同士の争いが、アルノーにとっかかりを与えた。まずアルノーはヴィトンのトップと手を組み、モエのトップを追放するためのサポートに回った。そしてその後、今度はヴィトンのトップを退任させたのだ。
90年になるころには、再びラザードから資金面の後ろ盾を得て、さらにブサックの事業売却で得た現金をつぎ込むことで、アルノーはLVMHの支配権を握っていた。