災害支援から学んだ、滅私奉公の終焉とインターネット

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僕は阪神淡路大震災の発生後、1年間ボランティアをしていました。当時はまだなんの肩書も持たない学生だったので、全国から集まる善意がフラットにつながり、力を発揮していく様子が強く印象に残りました。

オタクだった僕はPCのタイピングが早く、ミーティング時の書記が得意だったため(今ほど一般にPCが普及していない時代でした)、自治体などの会議で重宝され、被災地のあらゆる情報をまとめる作業を任されたりもしたのです。

これが日常であれば、作業にふさわしい肩書や立場のある大人が行うところですが、非常時だからこそ、適切な能力を持つ人が率先して作業を行うことができたのです。僕は災害時だからこそ、フラットなつながりのなかで自分の持てる能力を発揮できました。この体験は、いまにして思えば非常にインターネット的です。

つまり、災害時の人のつながりをインターネットに置き換えてみると、インターネットとは肩書に関係なく、人と人、需要と供給がフラットにつながることのできるツールだということがわかります。

この強みをさらに良い方へ生かしていくために、印象的だった体験があります。それは「滅私奉公の終焉」です。

「そんな顔で被災地のみなさんが元気になるか?」


神戸は海と山に挟まれた街なので道が狭く、おまけに地震で主要道路のうち1つが使えなくなったために物資を運ぶのがとても困難でした。被災地の人々は日々、飢えとの戦いを強いられていたのです。

そこで、ボランティアに参加されていた歌手の桑名正博さんは、船で物資を持っていこうと提案しました。僕はバイクであちこちを移動しながら物資を運んでいて、各地での物資事情を把握していましたから、彼の支援部隊に参加して、道先案内人の一人になりました。

被災者の方々がご飯も満足に食べられない状況だったので、僕は自分が先に食べるわけにいかないという思いからご飯を食べられず、現地を行き来していました。すると当然、ふらふらになってきます。

そんな僕の顔を見た桑名さんが、「そんな顔で被災地の皆さんが喜ぶか? 元気になってくれるか?」「まず自分が体力を充実して体調を整えて、長い間ボランティアが続くようにしていかないと意味がない。もっていくのなら笑顔をもっていこう」とおっしゃったんです。

その言葉に僕もハッとして、ご飯を食べ、できるだけ笑顔で接する練習をしたりしました。桑名さんたちも、「船から港に上がったら笑顔を持っていこう、船に戻ったら自分たちが元気になろう」と言って、歌ってくれたり、みんなで語り合う機会をつくってくれたりしました。
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文=尾原和啓

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