『聖なるズー』著者に聞く、「動物性愛者との対話」から考える日本のジェンダー

『聖なるズー』著者 濱野ちひろ 撮影=小田駿一


濱野が著書の中で語るカミングアウトへの逡巡は切実だ。母親には「誰にも話さない方がいい」と言われた。親だからこその思いとは理解しつつも、(何も悪いことをしていない)性暴力を受けた人間を傷物と捉える思考ではないか、と著者は思い悩む。

数年後、周りの人に少しずつ自分の経験を話し始めてみると、まるで性暴力の原因があらかじめその人に備わっているかのような偏見の言葉をかけられ、深く傷つく。母の助言はある意味正しかったと認めつつも、「誰かが語らなければ、鋳型にはめられたセックスの輪郭が崩れていかない」と濱野は書く。

著書の中で、何度も強調されているのは、ズーの人たちが言葉の分からない動物一頭一頭の「パーソナリティ」を理解し、「対等」であろうと努力する姿だ。人間と動物との関係性の葛藤を、濱野は動物性愛者たちと寝食を共にしながら探っていく。

──ドイツでは幾人ものズーの人たちの家に泊まり込みで調査を行っている。なぜそのような手法を取ったのか。

文化人類学という学問の伝統的な手法で、参与観察と呼ばれる調査方法。研究対象の民族の暮らしに入り込んで、寝食を共にするというのはフィールドワークとして非常に有効だ。しかし、セクシュアリティ研究においては必ずしも「寝食をともにする」ことが不可欠だったとは思わない。とはいえ、結果的にはとても良かったと思っている。この方法でないと知り得ないことも多かった。

インタビュー形式の調査だけでは、質問に対する回答のみに終わってしまい、見逃してしまう日常の些細なできごとも多い。例えば、ドイツ人男性でズーであるミヒャエルが猫に名前をつけていなかったことをはじめは不思議に思ったが、数週間一緒に過ごしてみると、彼は動物と、言葉ではなく、目を見、耳を澄まし、匂いを嗅いでコミュニケーションしていることが分かり、名前が必要ないのだ、ということが分かった。

──ゼータの人たちと共に生活してみて、自身が気づいたことは?

ゼータの人たちに会う前は、動物性愛者という人々に対して私自身にも偏見があったし、恐怖心もあった。一般的に考えて、外国で知らない男の人の家に行く、ということ自体が常識外れ。その上、犬をパートナー(妻)として一緒に暮らしている男性となると、会いに行くのは怖かったし、勇気がいった。

しかし、ミヒャエルとは出会ってその日のうちに打ち解けることができた。一緒にいると、彼が変な人ではないということが分かってくる。「なんだ、素敵な人だ」と。分かった瞬間に気持ちが打ち解け、今までの自分と全く違う自分がそこにいた。

防衛本能もあると思うが、「知らない」ということがこんなに恐怖を煽るものか、とも思った。しかし、知らないことを知らないまま放っておくよりは、知った方が怖さも減るし、次の世界への扉が広がるのだ、ということを強く感じた。
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編集=岩坪文子

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