ところで物語のヒロインが、既に出会っている肝心の相手に当初は良い印象を抱かず、なぜか間違った相手を好きになるのは、ラブコメでよくある展開だ。
キャリーが最初の方で偶然顔を合わせているのは、窓の外で演奏していた音楽家のサイ。彼女はその騒音にクレームをつけている。サイが登場するのはいつも窓の外で、そこから彼女に話しかけていた。「外」にいることが、キャリーにとってサイがまさしく対象「外」だったことを示している。
(左から)サイ役のウィリアム・モーズリー、監督のスーザン・ジョンソン、ハリソン教授役のコリン・オドナヒュー(Photo by Noam Galai/WireImage)
そんなサイの存在感が増してくるのは、キャリーとマットの関係が終わり、相次いで二人の「父」に、彼女の忌み嫌う“大人の事情”を見てしまった後である。
これまでキャリーに関与した男性──父、ペトロフ先生、ハリソン教授、マット──は皆、それぞれの立場でなんらかの迷いを抱えていた。それらは、人とうまく関係が作れず、進むべき道を見失ったキャリー自身の迷いともダブっていた。彼らとキャリーの場面がいずれも、閉ざされた室内だったというのも象徴的だ。
そんな中でサイは、音楽という道を見定め、目標に向かって邁進する迷いのない男として浮上してくる。彼は文字通り「外」から出現し、「外」へとキャリーを連れ出す。
二人が肩を並べておしゃべりしながら、クリスマスで賑わう街を歩き回るシーンの生き生きした開放感と躍動感は、それまでの場面にはないものだ。
『フラニーとズーイ』の二人さながらに、迷走していたキャリーはサイとの交流を通して、自分自身に立ち返っていく。これまで忘れていた「関係性」の喜びが彼女に活力を与え、“大人の事情”を許容し、過去を清算する勇気をもたらしたのだ。
連載 : シネマの女は最後に微笑む
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