ビジネス

2020.01.20 09:30

リターンは年30%! プライベート・エクイティの若き「王者」


その後、ブラボーはスタンフォード大学へ進学。すでにロースクールに合格していたが、ビジネススクールにも通いたいと考え、大学にしつこく掛け合った結果、両スクールで学ぶことを許された。

98年にスタンフォードを卒業した際、インターン先からも仕事のオファーがもらえなかったブラボーは、職を探して何カ月も売り込みの電話をかけ続けた。そんなある日、ブラボーの履歴書がカール・トーマ(71)の目に留まった。トーマはシカゴ拠点のPEファンド、ゴールダー・トーマ・クレシー・ラウナー(現GTCR)の創業パートナーで、2人はすぐに意気投合した。

70年代のPE界の草分けの一人であるトーマは、パートナーらとともに、小規模な企業を買収し、さらなる買収を通じてその企業を拡大していく手法をとっていた。98年にブラボーが加わったとき、トーマとパートナーのブライアン・クレシーは、ちょうどトーマ・クレシーを設立したところだった。トーマはブラボーをサンフランシスコに送り込んだ。投資先を探させ、同社のベイエリアでの存在感を高めさせるためだった。

ブラボーは最初の数件の買収を30歳になる前に手掛けたが、それらは大惨事に終わっている。ウェブデザインのスタートアップ2社に投資したが、それはちょうどドットコム・バブルがはじけた時期だった。ブラボーは両社に投じた1億ドルの大半を失った。「二度とリスキーな分野に投資したくないと思った」とブラボーは語る。トーマ・クレシーは石油、ガス、通信など他の分野でも苦戦し、当時、PE業界でも最悪といえる運用成績を記録していた。

だがその「失敗」が、あるひらめきにつながった。ブラボーは、新興の起業家に投資したのが間違いであることに気づいた。そもそもハイリスクだし、その資金を使ってニッチな製品を作る既存企業を買収することができたのに、と。トーマの賛同を得て、すぐさまブラボーは方向転換する。

ドットコム・バブルが崩壊したばかりだった当時、市場にはバブル中に上場したものの経営難に陥り、買い手が少ない企業がいくつもあった。ブラボーが最初に大型案件を手掛けたのは02年。流通業向けにソフトウェアを提供する企業、プロフェット21の買収案件で、同社の株価売上高倍率(PSR)はわずか1倍だった。ブラボーは経営陣を一掃せず、CEOを留任させ、主に競合の吸収合併を通じて増益に取り組んだ。7社を買収した後、ブラボーは同社を2億1500万ドルで売却し、投資額の5倍を稼いだ。

ソフトウェアは瞬く間にブラボーにとって唯一の注力分野となり、トーマ・クレシーは業績を伸ばしていった。05年頃には、ブラボーとトーマはアプリケーション、セキュリティ、ウェブインフラ分野を強化するため、3人の従業員を新たに迎え入れた(この3人は現在もパートナーとして活躍)。
次ページ > 飛躍のチャンス

文=アントワーヌ・ガラ 翻訳=木村理恵 編集=増谷 康

この記事は 「Forbes JAPAN 1月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

ForbesBrandVoice

人気記事