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泉谷氏は著書『「普通がいい」という病』で、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を参考にして、親を支配的な「龍」に例えている。「龍」に従うだけの従順な「駱駝」から、この「龍」を倒す「獅子」に変身することによって、人は初めて本当の自分になることができるもの。親の引力圏を脱する闘いを経なければ、人は真に自分の世界を構築できないものなのだ、という。
泉谷氏は続ける。
「幼い頃、大きく、神のように見えた親の姿を、その当時の親の年齢を追い越した今になっても凌駕できないでいることのほうが、よほど偏った状況です。ですから、親が衰えたことによってそのイメージが崩れていくことは、むしろ歓迎すべきことではないか。悩むのではなく、むしろ幼い自分に対して強大な神のように振る舞った親の実態が、実はこういう弱さも持っていた不完全な人間だったのかと知ることで、むしろ本当の自分を解放し実現することにもつながるのではないでしょうか」
親を、子どもだった自分が見上げたままのイメージで捉え続けていると、その親が衰えた現実を見て、過去の思い出が損なわれるように感じるかもしれない。しかし実は、実像とは違う偶像崇拝を続けていただけかもしれないのである。
泉谷氏の話を聞き、鮮烈に蘇ったある映画のワンシーンがある。
名作『風と共に去りぬ』で、ヒロインのスカーレット・オハラが、「タラに帰れば母に会える、母がきっとなんとかしてくれる」と一心に馬車を故郷に向かって走らせる場面の後の、映画史に残る独白のシーンだ。
たどりついた両親の家で聞かされたのは気丈で世話好きだった母の死と、悲しみのあまり痴呆化した父の変わり果てた姿だった。悲嘆の末、忘我の境に陥るスカーレットだが、その後に彼女の口をついて出るのは、故郷の赤い土を握りしめて吐くあの名台詞「もう二度と飢えたりしない」だ。
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ここで描かれるのは、頼みにしていた母の姿がかき消えたことで余儀なくされた少女時代との完全なる訣別、訪れた「土」への愛への気づき、そして何よりも本当の自分との邂逅だ。自我の拠り所、「神」でも「龍」でもあった母の不在という現実との対峙が彼女をかえって自由にし、「真の自分」、すなわち、本来生まれもった不屈の精神と自我が覚醒した瞬間でもあったと思える。
若くみずみずしかった親と過ごした子供時代が、老いた親の姿で強制的に「書き換えられてしまう」と捉える代わりに、自ら積極的に記憶を「書き換え」てそこから自由になること。それこそが、人として成熟していく上でわれわれがなすべきことなのだとしたら、どうだろう?
冒頭の蒔野聡史の言葉ではないが、未来が常に過去を「変え得る」と理解するべきだとしたら。「自分は金輪際、親を神格化などした覚えはない」という場合でも、受けていないはずはないなんらかの親からの影響を、どこかの時点で能動的に書き換える必要があるとしたら。親が衰え、介護者としての自分の「配下に下る」前に、もっと早いタイミングで親から自由になること、自分の過去をうまく「書き換える」ことを企てるべきだとしたら──。
もしかすると、それが、いざ親が衰えきったとき、相対的なかつての若い親としてでなく、介護する相手として彼らを受けいれ、うまく向き合うための方策のひとつなのかもしれない。