「あえて一人でいることを大切にする時もあっていい。自分の価値観を他人にあれこれ言われたりするのは嫌だし、ましてや整理整頓することなどやめてほしい」
大戦中の1939年からスイスに亡命し、1954年までココ・シャネルはほぼ全てのビジネスを閉鎖し、一時引退している。長きに渡って表舞台に姿を表さなかったのは、戦時中ナチスの将校と愛人関係にあったことで反シャネルの風潮があったから、などと言われているが、それでも彼女は71歳にしてモードの舞台に舞い戻ってくる。
彼女が業界に復帰した頃には、クリスチャン・ディオールによるニュールックなど、腰を細く見せ、女性らしさを強調するようなスタイルが再興していた。かつてのシャネルのスタイルとは真逆のものだった。しかしシャネルは自らのスタイルを貫き、復帰の翌年には「シャネル・スーツ」を発表し、モード・オスカーを受賞する。
15年の沈黙期間は決してただの空白の期間ではなかったのだ。自分を見つめ直し、確固たるものを確認する時間も必要なのだ。
「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの」
常に夢をもつことを忘れなかったココ・シャネル。修道院を出て働くようになってから当初の夢は、歌手になることだった。何度もオーディションを受けたという。タフな環境で育ちながらも夢見ることを諦めなかったことは、彼女の大成の大きな要因だろう。
夢見ることなしに達成はない。夢をもつとはすなわち人生を豊かにすること、人生を創造することだ。
1969年に撮影された、ココ・シャネル (Getty Images)
「男の人に小鳥の重さほどの負担もかけたいと思ったことはないわ」
この言葉には、自分は自分として生きていく、という彼女の人生を貫く強い意志が表れている。関係を育みながらも決して相手に依存しない。だからこそ芸術家から公爵まで、数々の男性を虜にしたのであろう。
恋多き女性として知られるココ・シャネルだが、彼女にとって恋愛とは、ただ恋人に酔するだけのものではない。恋人が身に着けるものは新たなスタイルの案、恋人から授けられる財はブティックを開店させるための資金に。関係から得られるものは全て、自らのインスピレーションの糧とした。
シャネルが当時の男性用の衣服を女性のファッションに取り入れたのは先述の通りだが、その着想は常に自分の一番身近にいた男性、つまりは恋人からだった。シャネルを代表するツイードのスーツや革新的なパンツスタイルは、当時の恋人が着ていたものを借りたところからその歴史が始まったという。さらに永遠のアイコン「2.55」のバッグはもともと男性用アーミーダッフルバッグから着想を得たものだった。
ココ・シャネルが生涯を通して愛し、熱中したものは仕事であった。そして仕事をする上で必要なのは、愛し愛される恋人の存在だった。愛をもって接することのできるものの存在は偉大だ。
「私は日曜日が嫌い。だって、誰も働かないんだもの」
生粋の仕事人間だったココ・シャネルは、仕事のない日曜日が嫌いだったという。家庭をもたない彼女にとっては働くことこそが生きることであり、だからこそ自分の仕事には一切の妥協を許さなかった。
そんな彼女の命日は1971年1月10日。日曜日のことだった。「ほら、こんな風にして人は死ぬの」と言ってこの世を去ったという。
働くことに生涯を捧げた彼女の幕引きとしては、はかなくも感じる。まだまだ働きたい、やり残したことがあっただろう。しかし彼女の夢は今もなお、世界中の憧れの象徴となり、生き続けている。ココ・シャネルの仕事は続いていくのだろう。