しかし当時、1958、62、70年と3度もワールドカップを制したサッカー王国でカズを待っていたのは、夢と希望などではなく、挫折と絶望の連鎖だった。テクニックはまずまずだったものの、身体も小さく、これといった武器ももっていなかったカズの心は何度も折れそうになった。
「しょっちゅうへこんでいました。環境を含めたレベルの違いを目の当たりにして、プロになる道がこれだけ険しいのかと思って。僕よりも体格がよくて、身体能力や技術も高い選手が大勢いるなかで彼ら追い抜いて、その上のユースの選手たちをまた追い抜かないと、さらに上には行けないと思うと正直、挫折感しかなかった。でも、そのたびに『何のためにここに来たのか』と思って、ひたすら練習していました。いま思うと、そうやって自分の原点へ戻ることは大事ですよね。サッカーを含めて、人生は成功より失敗の方が多い。だからこそ、へこんでも自分の原点に戻って、必死に乗り越えることが大切なんです」
ペレ(Hindustan Times / Getty Images)
憧れのペレと偶然にも出会ったのは、脳裏に浮かんでは消えるネガティブな言葉を、必死にポジティブなそれに変換していた多感な時期だった。しかも、ペレは見ず知らずの日本人に声をかけてくれた。
「ペレに『頑張れ』と言われたときは本当にびっくりしたし、嬉しかったですよね」
その場で武者震いしたカズにとって、ペレのエールはその後を支える金言になった。
「キング」と名乗ったのは自分から
プロになって34年目。世界でも例を見ない52歳の現役最年長選手であるカズとペレとの出会いをなぜいま記したのか。その答えは、師走も押し詰まった12月22日に、東京・文京区の日本サッカーミュージアムで開催されたトークショー『2020 日本サッカーこう戦う』に出演したカズが、「キング・カズ」と呼ばれるようになった由来を唐突に明かしたからだ。
時は1993年10月21日にまでさかのぼる。カタールの首都ドーハ。アメリカワールドカップ出場をかけたアジア最終予選。サウジアラビア代表との初戦を0-0で引き分け、イラン代表との第2戦では1-2とまさかの黒星を喫してしまった、オランダ人のハンス・オフト監督に率いられた日本代表は6ヵ国中で最下位に転落してしまった。
絶体絶命の日本を鮮やかなゴールで蘇生させた人物こそ、ブラジルから帰国し、日本のエースへと成長していたカズだった。北朝鮮代表との第3戦の前半28分に最終予選初ゴールを決めて先制すると、カズのアシストから中山雅史が決めた後半6分の追加点をはさみ、同24分にもこの試合で2点目をゲット。日本を3-0の快勝に導いた痛快無比なパフォーマンスに、現地カタールの記者も魅せられた。
一夜明けた新聞「ガルフ・タイムズ」には『KING KAZU』の大見出しとともに、カズの活躍が大々的に報じられた。記事を執筆した同紙のイギリス人記者は、ペレが在籍していたサントスFCでカズがプロの第一歩を踏み出したキャリアに着目。ペレ、イコール、キングという流れで見出しに採用した。ペレの愛称であることに恐縮しながらも、誇らしいと思える自分がいた。
「それからは自分で言うようになりましたね。翌年に出した写真集のタイトルの一部にも『KING』と入れたし、発信は自分からでした」
ちょっぴり照れ笑いを浮かべたカズに明かされた秘話の数々に、会場はどよめきと笑いに包まれた。前夜に開催された新国立競技場のオープニングイベントに、スペシャルゲストとして登場。真新しい芝生のピッチに初めて足を踏み入れたアスリートとなったカズは、トークショーでも来場者の視線を独占する、キングならではの眩いオーラを変わらず放っていた。