この連載では、マニアックなお酒を揃えるBARの店主として、飲食関係者という少し内側の目線で、「心がふるえる一皿」を紹介していきます。
珈琲の香りがする握り寿司
最初に紹介するのは、僕が「死ぬ前に食べに行きたい」と心に決めているお鮨の中の象徴的な一貫。二子玉川にある「寿司 㐂邑」さんの「超長期熟成のマカジキの握り」です。そもそも、僕が美味しいものに異常なまでに執着するようになったのは、数年前にこの一貫に出会ってしまったから。それは、お鮨の概念を覆す強烈なインパクトでした。
㐂邑に出会う前に頂いていた美味しいお鮨は、魚の鮮度や酢飯にこだわった、想定内の進化形でした。それが、ここで初めて肴・お鮨をいただいたときに、「かつてないもの」を感じたのです。そして、〆に出てきたマカジキの長期熟成握りを口にした時に、そのインパクトは最高潮に達しました。
魚であるマカジキから、熟成の副産物と思われる「珈琲」のようなこうばしい香りがするのです。なぜ生の魚から珈琲の香りがするのか。全く想定していなかったものの、邪道な感じも、ネガティブな感じもなく、むしろ味わいの厚みのトーンに合っていて人生で経験したことのない美味しさでした。
僕が記憶している限り、その熟成期間は、平均40日から50日ほど。生の魚をこれほど長期間寝かせているのに、手当てがしっかりしていると、腐敗臭はもちろん、発酵臭もしない。ただ、本来の生の魚からは考えられない珈琲のような香ばしさを感じるだけ……。
㐂邑が熟成する目的は、魚の水分量の調整、言うなれば魚のドライエージング。ナンチャッテではない、ちゃんと仕事をした本物のドライエージングの牛肉に通じるものを感じます。
なぜそのような鮨を出すのか。御主人の木村康司さんは「まだお店がそんなに混んでいなかった頃も、当然ながら本気の仕入れをしていました。しかし残念ながら売れ残ってしまう魚もある。それらがどこから傷んでいくのかを観察していて、熟成に行き着きました」と話します。
安易に妥協した仕入れをすることも、原価率を考えて納得出来ないクオリティの魚を出すこともない。真摯に魚と最後まで向き合ったからこそ生まれた鮨なのです。