日本有数のクリエイターを裏から支えた女社長の物語

尾留川祐子・W社長 写真:Hiro Kimura(W)


気がついたら人脈も広がり、「この仕事は一人でやった方が楽しそう」と思い、2年後の1985年、24歳の時にスタイリストとして独立した。

複数のスタイリストのもとでアシスタントするのは今も珍しいことではないが、衣装を貸してくれるブランドらとの付き合い、仕事をくれる人がいないと独立は難しいため、業界でははやい独り立ちといえる。

しかし、持ち前の行動力をいかし、旭通信社(現ADK)や読売広告社などの代理店のアートディレクターやフリーのフォトグラファーらに仕事を振ってもらい、月桂冠や電鉄(小田急や東急)、日産などの広告、鈴木保奈美や石田ひかりら俳優やアーティストのスタイリング、「anan」「Hanako」「プチセブン」などのファッション誌を中心にキャリアを重ねていった。

正直、ここまで話を聞いて意外だったのが、モード誌やファッションショーといったど真ん中の仕事に携わっていなかったことだ。事実本人も、「現場で人と何かやるのは楽しかったけど、スタイリング(ファッション)を世の中に提案している感覚はなかった」とモヤモヤ感を持っていた。それでも独立して数年のスタイリストとしては順調なキャリアだった。

「人を繋ぐのが楽しくなっていった」

いつしかモデルやスタッフのキャスティングも任され、クリエイティブ・コーディネーターとしての才覚を発揮し始めるようになる。

コミュニケーション能力だけでなく、幼少期から親に鍛えられたファッションセンス、照明やスタイリストのキャリアなど、積み重ねてきた“感性の経験”が繋がっていたからだろう。誰にノウハウを教わったわけではなかったが、ギャラの相場や交渉は、コーディネートを始めた頃から実践で身につけていた。

スタイリスト個人で受けるよりも予算が大きく、ある程度は好きなことができるようになり、この頃から海外ロケにもチャレンジを始めた。フランス語はもちろん、英語も挨拶レベルだったが、90年代初頭はパリで活躍するクリエイターが評価される時代だったこともあり、「パリに行きたいという一心で、とにかくパリ撮影を組んでいた」と笑いながら振り返る。


現場を指揮するスタイリスト時代の尾留川代表 写真提供:尾留川祐子

才あるクリエイターとの出会い

その頃、パリでの撮影で、「人生のパートナーの一人」となる日本人メイクアップアーティストのMichou.(ミッシュ)と出会う。テクニックだけでなく、バイタリティの強さに惹かれた。

現地で活躍しながら、時折日本に帰ってくるMichou.に、「日本に帰ってきてるなら仕事すれば? 連絡して、一緒に仕事しよう!」と声をかけた。


Michou.がヘアメイクを担当した作品 写真提供:Michou.

そして1994年(33歳)、Wの前身となるクリエイターマネージメント「FEMMEmanagementproduce(ファムマネージメントプロデュース)」の旗を揚げる。
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文=砂押貴久

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