砂押貴久のエモーショナルライフ


他愛もない会話から始まったが、ちょうどこの頃は日本のクリエイターマネージメント業界の発展期でもあった。90年代前半にフォーカスすると、93年にKiKi inc.、94年にD-CORD、95年にコミューンなど、今でも続くマネージメント会社が立ち上がっていった。

事業を始めて2年後には、「Michou.のマネージメントをやっているならば」と口コミが広がり、所属希望者のクリエイターも増え、1人で5人のクリエイターを抱えるようになる。次第にその人数も増え、マネージャーも増員。いつしかモヤモヤ感があったスタイリスト業への踏ん切りもついていた。

クライアントやクリエイターから言われる“あれやこれや”の要望を叶えるために奮闘した。「凝り性な人が大好き」なのだ。心労もあったが、「できない。無茶だ。と言わずに、こだわりに応え続けた結果が実績に繋がった」と嬉しそうに振り返る。

海外や国内ファッション誌は網羅していると言っても過言ではないほど、気が付くと「クリエイターを通して、世の中に提案している」ことを実感できた。

作品に惚れて、結婚

土日休みもないほどプライベートはほとんどない生活だったが、1998年(37歳)に、友人の紹介から1年間の交際を経た相手と子どもを授かり、結婚した。フォトグラファーの原田澄。当時、「Oggi」「メンズクラブ」「ホットドック」「miss家庭画報」などのファッション誌の表紙、広告、藤原竜也の初写真集などを手掛けていた売れっ子だった。


原田澄の作品 写真提供:尾留川祐子

「初対面の印象は悪かった。写真以外の話ができない人」と言う一方で、「作品があまりにも素晴らしくて、非常にシャイな彼に惹かれた。それで結婚したようなもん。そもそも変な人が好きなんだと思う」と笑いながら振り返る。

結婚後も、作品を作りたい衝動で写真を現像する暗室に1週間こもったり、イタリアに3カ月も撮影に出かけたり。「普段は良い父親だけど、突然いなくなったりする破天荒な人」だったと言う。

尾留川代表は、子どもを産んで、わずか3カ月で仕事に復帰。生後5カ月で無認可の保育園に預け、保育園の終わりに仕事が残っている場合は現場に抱えて行った。クリエイターがスタイリングやヘアメイクに集中するショーの現場は特に大変だ。ところが、張り詰めた空気でも泣かずに静かにしていたという。

周りからは「なんて英才教育!」と言われた。「今思うと、子どもには酷だったなー」と悪びれた様子で振り返るが、そうせざるを得ない状況だった。

90年代後半は、表現の多様性や予算の規模感など、クリエイター業界の全盛期。様々な媒体や企業の広告から引き合いを受けた。「目の前の1日を生きているだけで精一杯」。そんな時期だった。

文=砂押貴久

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