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乳がんという「転機」


真の友のいる人生


Mと初めて出会ったのは、高校一年の入学式だ。同じクラスで、名字の頭文字がハ行とマ行で近かったこともあり、お互いが視界に入る位置に座っていた。国立大学の附属高校だったので、私を含めて、ほとんどが附属中学からの内部進学生という浮ついた空気のなか、外部から、しかも地方の中学校から受験をして、狭き門をくぐり抜けてきた秀才だった。

さらにびっくりしたことに、当時、彼女の両親と妹たちは海外在住で、彼女だけが日本に残り、大学生用の女子寮で自活していた。目玉焼き一つ作れない甘ったれた私にしてみれば、信じられないタフさだった。そして、当時から将来医師になることを目指していた。一人暮らしの志高いMは、何から何まで異質で、刺激的な存在だった。

姿勢が良く、字がきれいで、独自の視点で文章を書く。表も裏もなく、思ったことをストレートに話す上に、正義感も責任感も人一倍強く、好き嫌いもはっきりしていたので、人と衝突することもあったし、本人も悩みは多かったようだが、私はいっしょにいて楽しかった。Mと話していると、その頭の中に入ってちょっとのぞかせてもらえるようで、わくわくした。

「忖度」「塩梅」「調整」とは無縁の、Mの痛快な生き方には、このころからずっと憧れている。理系科目はもちろん、文系科目も得意だった。大学受験に向けて、授業が文理に分かれるときに、文系にも取りたい授業がたくさんある、と残念がっていた。

高1の文化祭では映画の脚本をオリジナルで創り、パソコンもワープロもない時代に、たった一人で書き上げた。高3の演劇のときも、脚本を手書きで仕上げたのみならず、舞台にも立ち、大活躍だった。自分から積極的に手を挙げるというよりは、能力と人望で頼られた結果、自然とやることになってしまう、というパターンが多かった。だから、いつもぼやきながらだったが、それでも結果的にMはクラスの支柱となっていた。

親の期待を重荷に感じて、医師になる道から外れたくなり、塾でわざと文系のコースをとってみたり、親への反発を口にしたりすることもあった。何かがうまくいっていないんだろうな、何かと葛藤していて明らかに辛そうだな、と伝わってくるとき、私にはどうすることもできなかったが、うちのお母さんのおいしいごはんを食べたら少しは気持ちが晴れるかもしれない、と思いついた。

そこで、学校から一緒にうちに帰り、ごはんを食べて、一緒に寝た。Mは、楽しそうに、私の両親と話していた。私の母は、私に指示というものを一度もしたことがない、文字通り「子どもの背中を見守る育児」の驚異的なまでの実践者だったので、Mの話もよく聴いていた。Mの考えを理解し、Mのお母さんの遠く離れているがゆえの心配にも共感していた。Mは、うちに来ると表情が柔らかくなるので、ほっとした。それからことあるごとに泊まってくれるようになった。

当時、私は父の仕事の内容に興味はなかったが、Mは仕事の話もいろいろ聴いたそうだ。最近知ったのだが、母が若かりし頃のバルセロナ旅行の話など、両親との話は全部詳細に覚えている、という。ちなみに、私は母のバルセロナ旅行の話など、聴いた記憶すらない。

一度、二人でどこかに寄った帰りに、見知らぬ住宅街で迷ってしまい、自宅への道順がわからなくなったことがあった。近くで世田谷線の走る音がしたので、私は線路を歩けば最寄り駅まで間違いなく着く、と提案して、二人で線路を歩いたことがある。線路沿いの道ではなく、線路そのものを。つい最近、同年代のアラフィフ芸能人二人がいっしょに線路を歩いて捕まり、謝罪会見をしていたのを見て、忘れていた世田谷線の記憶が、あのときの高揚感といっしょに一気によみがえった。

その後の人生では、お互いそれなりに困った事態に陥ったことはあったが、今回の私の病気という最も危機的な状況下においては、万が一のことも考えて、Mに対する思いは、恥ずかしがらずに伝えておこうと思った。心身ともに底なし沼に落っこちてしまいそうなところを、全力で引っ張っていてくれるMは、まさに命綱で、存在自体に感謝していた。

長年蓄積されてきた感情は、好きというより、敬愛する、というほうが近い。英語でいうと、loveというよりは、adore。

すると、Mから「もう50にもなろうとしている今日までゆうちゃんと切れずに話をしていられるこの状況すべてに感謝で、敬愛を通り越えて、なんというか自分の一部のように感じてしまっているんです。いてもらわないとダメなんです。いてくれるだけで良いんです」と返ってきた。「病気?! そんなものはなったらなったで最善の道をいっしょに探すまでのこと。だから、食べて、飲んで、子どもたちの前では笑っていてね!」と。

うれしかった。ありがとうの五文字では足りないほど、ありがたかった。言葉では表現できない。魂が震えるとはこういう感覚なのか。自分の「魂」の存在を体感したのは、これが初めてだった。自分の一部、いてくれるだけで良い、と言ってくれる友ができた人生なら、もう今日死んでも悔いはない、とすら思った。

この年の秋に、日野原重明先生の『生きていくあなたへ~105歳どうしても遺したかった言葉』という本を読んだ。そこで、日野原先生は、「本当の友達」についてこう語っている。私が感じたことと、一言一句同じなので、引用転記したい。

「では、本当の友達とはいったいどんな存在なのでしょうか。僕にとっては、僕のために祈ってくれる人です。誰かのために祈る行為とは、相手を自分のことのように思うということです。どんなに互いの境遇が変わっても、何年も言葉を交わしていなかったとしても、僕のことを自分のごとく感じ、僕が受けた痛みを一緒に悲しみ、僕の幸福を一緒に願ってくれる、そんな真の友がいれば、どんなに人生は心強いものになるでしょうか。では、そのたった一人の友を見つけるためにはどうしたらいいのか……。大切なのは、インスピレーションです。もし誰かと出会って、この人だと感じたら、その感覚を信じてみてください。そしてもっと重要なのは、インスピレーションを感じた相手と時間を過ごし、ともに歩き、いつか一緒の『舞台』に立つということです。舞台とは、その友が命をかけて臨んでいる恐ろしい場です。真の友になるためには一緒に苦難を乗り越えていく必要があるからです」

たとえがんにならなかったとしても、Mが親友であることに変わりはなかったと思う。が、がんになったおかげで、命がけの「舞台」に二人で立てることのありがたさを実感することができた。

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連載「乳がんという『転機』」。筆者は電通 チーフ・ソリューション・ディレクターでForbes JAPANオフィシャルコラムニストの北風祐子さん。

初動から立ち直るまでのブログ的記録。11人に1人が乳がんになる時代、大親友がたまたま医師だったおかげで筆者が知ることができたポイントを、乳がんの不安のある女性たちやその家族に広く共有し、お役に立てていただけたらと考えています。

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文=北風祐子 写真=小田駿一

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