ライフスタイル

2019.12.23 17:00

パリと東京、服と性を問い直す。ファッションデザイナー末定亮佑の反骨 #東京の人


もう、前に進めない

1年ほど経った2013年の夏、珍しく日本から国際電話が掛かってきた。家族からだった。

「お父さんが亡くなった」

心不全だった。まだ50代。持病があり、透析は受けていたが、まさか。

誰よりも自分の夢を応援してくれていた父の、早すぎる突然の死。まだまだ夢の途上なのに──。

帰国し、父の周辺を整理した後、またパリへ戻った。しかし、さらなる不幸が襲った。半年後、祖父も亡くなってしまったのだ。実家の経済状況は一気に悪化した。

パリで暮らすことにも限界がきていた。学生ビザからフリーランスビザへの切り替えで行政側にトラブルがあり、ビザの更新ができない状況が続いていた。仮滞在許可証を何度も受け取りながらビザが下りるのを待ち、仕事を探したが、ビザがないので正社員として雇用してはもらえない。

心配した周囲が回してくれたバイトでなんとか食いつないだ。地下室でウエディングドレスを縫い続けたこともあった。

もう、日本に帰らないと、前に進めない。父が亡くなった翌年の夏、末定さんは帰国した。

「まともに仕事ができないのがもどかしく、指をくわえながら、憧れの世界を間近で眺めているような日々でした」。夢を追いかけながら必死で暮らし学んだ、大好きなパリの街を離れた。

久々の日本。リーマンショックを乗り越え、再びじわじわと成長軌道に乗り始めたこの国は、ずいぶん変わったように思えた。それとも、自分自身が変わったのだろうか。

テレビをつけると、知らない制服姿のアイドルたちが歌い踊っていた。女性の目指すべきファッションを象徴するワードとして「カワイイ」が席巻していた。

半分外国人のような気持ちを味わいながら彷徨った。街を歩いているだけで違和感があった。

仕事があるだけで幸せ。そして、ブランド立ち上げ

とにかく就職しなければ。友人の家に泊まり込み、就職先を探した。パリで一流のデザイナーと仕事をしていたにもかかわらず、「国内経験ゼロ」の事実が足かせになり、仕事探しは難航した。

印刷工場でアルバイトをした。年末、年賀状の印刷需要がピークだった。地下の工場で手を真っ黒にしながらインクをこねた。

それでも思っていた。「仕事があるだけで幸せだ」と。「ビザがなく、仕事ができないのは本当に辛かったから」。印刷所の人たちに可愛がられた。その職人気質に、服飾の道を志す自らとの親近感を感じていた。

その後、国内のアパレルメーカーになんとか就職することができた。当初は企画職として採用されたが、前任者がすぐに退職したことから生産管理も任され、webサイトのグラフィックデザインやカタログなどの販促物のデザインも行った。手探りではあったが、縫製工場や生地メーカーとのつながりができ、取引先の人たちから仕事を教わることも多かった。

ある程度のまとまったお金ができたこともあり、退職。2017年に「SUÉSADA」を立ち上げた。父の死から3年が経っていた。

服作りのコアになっているのは、大学で学んだ「デザイン」の意義と、自分自身がファッションを通して経験したコミュニケーション、そしてパリで見た女性たちの装いだ。

大学で専攻したビジュアルデザイン学科では、デザインとは、一方通行のものではなく双方向のコミュニケーションとしてとらえるという前提があった。また自らもファッションを通じて交友関係が一気に開けたことから、ファッションとは自己表現やコミュニケーションのツールであるという気づきを得た。「コミュニケーションが生まれるような、メッセージ性のある服作り」がしたいという思いが芽生えた。

パリの女性が纏う服は、コミュニケーションツールだ


そしてパリで目にしたシーン。フランスでは社交の文化が生きていて、オン・オフがはっきりしていた。昼間はほぼノーメイク、シンプルな格好で働いている女性たちが、夜になると大胆にドレスアップ、メイクアップしてクラブやカフェ・バーで集う。「装う」ということを日本人とは違ったスタイルで楽しんでいるように思えた。

ヨーロッパの夜は大人のムードで、自然と性も意識する。女性の纏う服が、周囲の紳士的な対応を促すコミュニケーションツールのように見えた。女性は若い人だけでなく、いくつになっても恋をしていて、年相応の女性であることを、心から楽しんでいるように見えた。そういった寛容さが、幅広いデザイナーの表現を受け入れ、新しい解釈を生んでいるように見えた。

パリで出会った一人のミューズがいる。シェアハウスに住んでいた頃に出会った、ルームメイトの友人の母親だ。3度の結婚を経て苦労しながらも、絵を描いたり食器のデザインを手掛けたりしながら子供の面倒を見ている、自立した強い女性だった。

SUÉSADA 末定亮佑
ともにデザイナーを志していたルームメイトとの一枚。ルームメイトとはお互いの国の文化やデザインについてよく話し込んだ。
フランス語が拙い頃から、ビザにトラブルを抱えていた帰国直前まで、家族のように支えてくれた。(末定さん提供)


アンソニーに影響を受けたのは、性や色気といった、日本ではなかなか語られにくいことを、男性のデザイナーが服を通して表現しているということだ。

また、生地以外の付属物に魅力を持たせ、布を縫製する以外での表現に幅をもたせていたことだ。アンソニーは効果的に金具を使い、ディテールに磨きをかけていた。

シャネルのカメリア、バーバリーのチェック。ラグジュアリーブランドには必ずアイコンがある。「SUÉSADA」も、「ブラジャーの肩紐」などをモチーフにした金具がブランドの象徴となっている。

SUESADA 末定亮佑 ブラジャー
Photo : Shunichi Oda

大胆な露出のあるドレスは着る人や場所を限定するが、東京という場所で、そういったセクシーな要素を遊びとして取り入れ、コミュニケーションにつながるような服を作ってみてはどうか。それは洋服を通して様々な人とつながってきた自分の原点にも通じる。

ちなみにブラジャーの肩紐をモチーフにした金具は、自分で膝のカーブを使って手で曲げているんですよ、と笑う。
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文=林亜季、写真=小田駿一

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