パリと東京、服と性を問い直す。ファッションデザイナー末定亮佑の反骨 #東京の人

「SUÉSADA」デザイナーの末定亮佑。自宅兼アトリエにて(写真=小田駿一)


初めて自分で「選ぶ」ことを覚えた

それまで物静かで、友人もそれほど多くなかった末定さんに革命を起こしたのが、ファッションだった。高校時代は週6日を制服で過ごしていたが、大学時代に一気に服装が自由になったことで、急に服飾に目覚めた。「初めて自分で『選ぶ』ということを覚えたのかもしれない」。服が好きな友人同士、交友関係が一気に広がった。

専攻とは違うジャンルだが、服によって生まれるコミュニケーションにデザインの可能性を感じるとともに、自分が学ぶデザインの考え方を洋服で表現してみたい、と思うようになる。

実家から祖母の家庭用のミシンを取り寄せ、古着をバラして縫い直したりしながら、服のつくりを自分なりに学んだ。大学2年の終わりには、ファッションを生涯の仕事にしようと決めていた。ファッションが自分自身のポテンシャルを引き出し、拡張してくれているような気がしていた。

3年の頃にはテキスタイル学科の友人たちと一緒にファッションショーを企画した。4年になっても就職活動はしなかった。現在、ファッションデザイン専門学校「マロニエ」の理事長をつとめる若杉豊氏が開く個人洋裁店のアトリエに出入りし、縫製技術を学んだ。

当時若杉氏は60歳で、金髪に真っ黒な服。「元気な若い人と話すのが一番楽しい」と、面倒をよくみてくれた。

末定さんはより表現の幅が広い女性服を手がけるようになり、「いつかは自分のブランドを持ちたい」と考えるようになった。

大学卒業後、単身パリへ渡った。入学したAICPは1860年創立の歴史ある服飾モデリスト養成学校で、パリ唯一の政府認定校である。3回遅刻したら放校という厳しいカリキュラムで、クラスは女性ばかり。20年もの現場経験を積んだクラスメートもいるなか、語学も不十分であった末定さんは圧倒的に劣等生だった。

すべては、好きなことをやるため

渡仏にあたっても家族の反対を押し切り、「お金のことはなんとかする」とたんかを切った。

住んだのはパリ郊外にある築100年のボロボロのアパート。隙間風が吹き、夏場に1ヶ月間、電気が止まったこともあった。

時はユーロ高、パリの物価は殊更高かった。お金になることはなんでもやった。人の服を直して現金をもらったり、小さなブランドでボタンつけを大量にやったり。まとまった休みにはドイツに行って、治験のアルバイトをして稼いだ。

すべては、好きなことをやるため。自らにそう言い聞かせた。

「お金はなかったけれど、パリは歩いているだけで楽しい街でした」。当時はセキュリティがさほど厳しくなく、ファッションウィークの時期には飛び込みでショーを見られることもあった。

インターンとしてアンソニー・ヴァカレロに入ることができた。せっかくパリにいるのだから、日本にはいないようなデザイナーの元で経験を積みたいと思った。当時のアンソニーは自身の名を冠したブランドを立ち上げてそれほど経っていない時期で、スタッフは末定さんを入れて5人。コレクションを一から創り上げ、ショーで披露する一連の仕事を夢中で経験した。

アンソニー・ヴァカレロは、大胆な素肌の露出と布とのコントラストで新しい女性像を描くデザイナーとして注目されていた。下着もつけられないようなセクシーなドレスもあった。映画祭などでハリウッド女優やセレブが着用し、話題を集めていた。

苦労して学び、AICPを卒業。「まさかリョウスケが卒業できるとは」と同級生も祝福してくれた。引き続きアンソニーのもとで携わりながら、他のブランドにも出入りするようになった。順風満帆の船出に思えた。
次ページ > もう、前に進めない。相次いだ悲劇

文=林亜季、写真=小田駿一

ForbesBrandVoice

人気記事