賑わうカウンターはビジネスマンが大半なのに対し、はじめからテーブルに着くお客には、年配のカップルもいる。11月に入って寒さが深まったある日、ランチのピークが過ぎた時間に行くと、案内された席の隣には、すでに食事を終えて会計を待っている、自分の親と同じくらいの年代と思しきカップルがいた。
私の座ったところから、彼らのテーブルを隔てた向こうに黒板メニューが掛けてあり、腰を落ち着けてからじっとメニューを見始めた私のことを、隣りにいたマダムが見ていた。私が、何を頼むのか興味がありそうだった。
日替わり料理が毎日書き換えられる黒板メニュー
それで、「何を召し上がりました?」と聞いてみた。「ブランケット・ド・ヴォー(仔牛のホワイトシチュー)かブッフ・ブルギニヨンのどっちにしようかなと迷っているのですが」と言うと、「ブルギニヨン、美味しかったわよ。すごくよかった」と、とても満足したことが伝わってくる表情で答えてくれた。
ところが、じゃあブルギニヨンにしようと頼もうとしたら、売り切れで、ブランケット・ド・ヴォーを注文。運ばれてきたその皿を見たとき、おそらく私はニヤついていたと思う。ごはんの上に、こんもりシチューが盛られていた。
ごはんの上にブランケット・ド・ヴォーがかかって出てきた
だいたいが、タレとかおつゆの滲みたごはんが私は好きなのだが、フレンチで、お米を広げてよそったその上に、滲みわたるように煮込み料理を盛ったこの意外性が、殊の外、好きである。手にするのはフォークであっても、このフレンチ版ぶっかけ飯に、いただきますと手を合わせたい気持ちにもなる。
こういう料理ほど、難しいと思うのだ。味つけだけの問題ではなく、人それぞれイメージが付着した味を、体が覚えているような料理。仔牛のシチューを子供の頃から食べていなかったとしても、煮込み料理をごはんにかけて食べる時の感覚というのは、日本人だけに持ち合わせている。ひとくち食べて、違和感を持つか持たないか、さて、どうだろう。
ル・リュビのブランケットは、「うん、これでいい。これはいい!」と1人勝手に合格点をつけて納得し、頷くような味だった。いつも眺めているカウンターに目を向けることもほとんどなく、お米をひと粒残さず食べきった。
満ち足りて終えたランチで、ブルギニヨンも食べてみたいな、という思いだけが残った。しかし、その次に行った時には、はじめからメニューになかった。寒い季節だからと、毎日あるわけではないようだ。
帰り際に会計をしてくれた店主に尋ねた。「こないだブルギニヨン逃しちゃったのだけれど、だいたい何曜日に出すか決めていますか?」
「決めてない。ブルギニヨンは、次はいつかなあ。わからないなあ。あっ! ボジョレー・ヌーヴォーの日には必ずつくるよ!」
朗報だった。「でも、ボジョレーの日は混んでない?」と確認すると、「大丈夫、君がいつも来るくらいの時間帯は落ち着いているよ。ブルギニヨンも、その日は、売り切れることはない」と。店主とは、その日初めて直接話をした。それでも、だいたいいつも私が何時くらいに来るというのを見ているものなのだ。常連客の多い店の主人の性格を垣間見た気がした。