装幀家と映画監督の意外な共通点。『つつんで、ひらいて』広瀬奈々子監督に聞く

『つつんで、ひらいて』広瀬奈々子監督


──『夜明け』はフィクション、『つつんで、ひらいて』はドキュメンタリーですが、撮影や編集に相違点などは感じましたか。

広瀬 『夜明け』は主人公が自分に近いところもあったので客観的に編集を見てみようと思って、編集技師に入っていただいたんです。その日の編集方針──例えば「このシーンのここを切ってほしい」「こことここのカットを逆にして、どう見えるか知りたい」など口頭で伝えて、編集作業を一緒に行いました。

編集というのは本当に“生理”というか、人によって描く線が違うように、同じ編集機を使っていても人によってまったく変わる。『夜明け』では、指示はするけど、その編集技師の生理を信じて託そうと思っていました。編集って自分でやりだすと、際限がないんです。それこそご飯も要らないくらい(笑)、のめりこんでしまう。編集技師がいれば、ストッパーにもなってくれるし、客観的な意見ももらえるし、間違った方向にのめり込みそうになるときほど私の気持ちをコントロールしてくれるので、非常にありがたかったです。

ドキュメンタリーの場合は監督・撮影・編集を兼任するのがスムーズで、そうしたんですけど、やはりのめり込んでしまいました(笑)。

菊地信義
色見本を手にしている菊地。©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会

これからフィクションとドキュメンタリーをどのように行き来するのか、まだ答えは出ていませんが、正直ドキュメンタリーはかなり重いなと……。撮っている人の人生を左右させてしまう場合もあるし、撮影者と被写体の関係性自体が変わってくるから。

フィクションであれば、撮影期間が最初に決められているし、同じ船に乗ったお互いの力を信じてやっていこうとなる。でも、ドキュメンタリーは本当に探り探り。被写体にとっては監督が何をやりたいのかわからないし、監督にとっては被写体が何を見せたいのかわからない。「いま、何を考えているんだろう?」と互いを疑いながら撮っていかなければいけなくて、それが日々戦いなんです。

言わば、フィクションは信じることで“共犯関係”が生まれるけれど、ドキュメンタリーは“疑ってナンボ”というか(笑)。互いに疑い、そこから新たなアプローチをして、ようやく共犯関係が生まれるという気がしています。

“得体のしれない関係性”で本は成り立つ

──菊地さんを撮り続けて、亡くなられたお父様のことをもう一度理解するという部分はありましたか。

広瀬 本作をとっかかりに父を理解しようとしたのはどこかにはあるかもしれません。ただ、父を純粋な気持ちで尊敬しているというわけでもなくて、いろいろと複雑な思いもあった、というのが本音です。

菊地さんを撮って感じたのは、装幀という仕事と映画監督という仕事は似ているということ。ゼロから何かを生み出すのではなく、世界に存在するあらゆるものの中から輝いているものを見つけ出して作品にするのが映画監督の仕事だと思っているのですが、それが装幀という仕事と非常に通じるものがあるなと。既存の絵を使い、既存のフォントを組み合わせ、既存の紙を選び、それらの出合いによって新しいものを生み出す。要するに、「出合いをつくる」のが装幀の仕事だと思うんです。

父がそういう仕事だと認識していたかどうかわかりませんが、菊地さんの装幀に対する思想や仕事ぶりを通して、父のことをやはり考えざるを得ない瞬間はありましたね。

つつんで、ひらいて 装幀
©2019「つつんで、ひらいて」製作委員会
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インタビュー・構成=堀 香織

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