幻となった「日本版ケンブリッジ校」 英首相からも賛同を得た計画の全貌とは


立ちはだかる文部科学省の壁


当時制作した、学校設立プロジェクトのプロモーションビデオ

広大な敷地が確保でき一定数の生徒が定期的に通えることを考慮した結果、日本で学校を設立する候補地は愛知県か岐阜県で検討。候補地の目途がついた後は、実際にケンブリッジ大学の建築事務所の設計師が来日して、実地検分を行いました。

その際、候補地の町の人々は私たちを歓迎してくれたのですが、1991年当時の日本はバブル景気に沸いていたためか、予想していた地価よりもはるかに高い金額を提示され価格交渉が難航。日本で活動を開始した途端、暗雲が立ち込み始めました。

中部地方で学校を設立するために、愛知県の商工会議所を訪問。同会議所では、当プロジェクトの概要の構想、教育方針、設計図などについて説明したところ、書類は返却されず「検討します」と回答され、同意を得られるまでには至りませんでした。

最大の関門である、当時の文部大臣と厚生大臣に学校設立の提案のために訪問。ところが、大臣は日本の教育は文部科学省の方針で「文科省が認めた教科書に沿った授業が絶対」であることを主張。英国のパブリックスクールのように、9月が新学期で全寮制の中高一貫校、国語以外の全科目を英語で学ぶ教育方針の学校など、文科省は認可することはできないと回答されたのです。

「その日本の教育システムが、子供たちの個性や真の能力を伸ばすことができない金太郎飴を製造するような画一的なものではないか!」と思ったものの、我慢して口には出さず、最高のグローバルリーダーの育成法である自信と絶対に諦めない思いで大臣に説得したのです。

しかし、大臣は頑なに難色を示したまま、認可することはできないとの一点張りで、提案は通りませんでした。

認可外の学校設立を目指すも、困難を極める資金繰り

認可が下りないのであれば認可外の学校として設立するしかありません。融資を得るために、愛知県内のさまざまな企業を訪問し提案しましたが、どの企業からも理解を得られない状態が続きました。日本で学校設立の活動を始めてから提案が全く通らない状況が続き、このプロジェクトが暗礁に乗り上げつつあり、焦りを感じていました。

万策が尽きはじめ、当時の海部俊樹首相に学校設立プロジェクトの理解を得るために手紙を書くことにしました。海部元首相は、1970年代と80年代の半ばに文部大臣を務めていたこともあり、グローバルリーダー育成の重要性について理解いただけるだろうと考えたのです。サッチャー首相にも激励をいただいた経緯も含め首相官邸に手紙を送りました。
次ページ > もし設立できていたら…

文=田崎忠良

ForbesBrandVoice

人気記事