馬鹿がつくほど正直で涙もろい 闘莉王の引退の言葉

引退会見の闘莉王(中)


宗像監督の意向もあって、渋谷幕張高校在学中にそれまでの攻撃的なポジションから、最終ラインを守るセンターバックへと転向した。それまでは無縁だったヘディングの練習を、ボールを遠くへ弾き返す練習をひたすら繰り返した。そんな日々のうちに、心のなかにいつしかある決意が芽生えたという。
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「いままでにいないディフェンダーになろうと。守るだけでなく、攻めることも意識してやっていこうと。そして、もうひとつ決めたことがあったんです。自分は常に心を燃やしながらプレーしてきたんですけど、少しでもその炎が消えかかりそうになったら、年齢には関係なく引退しよう。大好きなサッカーに対しては、絶対に失礼がないようにやっていかなきゃいけない。去年の終わりごろに消えかかっていると感じ始めて、引退しなきゃいけない、と思うようになりました」

広島県出身の祖父の勧めで、2001年に入団したサンフレッチェ広島の時代から、心で闘えなくなったら引退、という決意を胸中にしのばせていた。期限付き移籍していたJ2の水戸ホーリーホック時代に日本国籍を取得し、登録名をトゥーリオから「闘莉王」に変えたときにも、「自分は闘い続けなきゃけないから」と、不退転の思いを「闘」の一文字に込めたのだという。

「相撲の力士みたいだという声もあったなかで、振り返ってみればぴったりの漢字だったと思っています。自分の心がブラジル人ではなく、日本人になっていると感じたから、日本国籍を取得することも決めた。日の丸に対する思い、いままで支えてくれた人への思い、日本に恩返しをする思いで国籍を変えて、そのうえでインパクトを残す名前にしなきゃいけないと考えた結果でした」
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2004年に浦和レッズに移籍。クラブの悲願だったJ1初優勝を成就させた2006年のシーズンには、最優秀選手賞(MVP)を獲得。翌2007年のシーズンにはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)も制し、2010年に移った名古屋グランパスでも、いきなりJ1初優勝を果たす原動力になった。

2015年のシーズン限りでグランパスを退団し、ブラジルに戻って無所属状態となっていたが、J2降格の危機に直面した古巣を助けたいと、シーズン途中の2016年8月に電撃復帰。残念ながらグランパスはJ2へ降格し、闘莉王自身も引退勧告を受けるも拒否し、2017年のシーズンからはJ2の京都サンガへと新天地を求めた。

しかし、昨シーズンの終盤には、心の炎が消えかかっていると感じていたという。そのとき、すぐに引退せずに、今シーズンでスパイクを脱いだ理由は、闘莉王が貫き通してきた生き様と密接にリンクしている。

「若いときはビッグマウスな一面もあって相手のサポーターを挑発し、ときには自分のチームのサポーターとも……喧嘩という言い方はよくないかもしれないですけど、綺麗な言い方をすればディスカッションをして、ときにはゲキを飛ばし、飛ばされてきた。おそらくは僕のことを嫌いだと胸を張って言うサッカーファンも多くいると思いますが、僕自身は常に彼らをリスペクトしてきた。常に勝ちたいと思い、たまに血が頭にのぼって申し訳ないことをしてしまったけれど、彼らがいなければこの瞬間はなかったし、僕のサッカー人生はつまらなかったと思う」
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文・写真=藤江直人

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