留学生として来日したのが1998年。ブラジル移民である祖母の田中照子さんから授けられた、周囲へのリスペクトを常に忘れない「日本人魂」を持ち続けながら、サンフレッチェ広島、水戸ホーリーホック、浦和レッズ、名古屋グランパス、最後の所属チームとなった京都サンガで、プレーを続けてきた。
2003年、日本国籍取得後に招集された日本代表でも、貫き通した強烈な生き様は、サッカー界にとどまらず、日本社会全体への熱いメッセージとなった。
祖母から「日本人魂を学びなさい」と言われた
携帯電話の番号がまだ10桁で、カメラ機能付きのそれも発売すらされておらず、インターネットの普及率も13.4%とようやく2桁を超えた1998年3月に、17歳になる直前のマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカは、ブラジルから成田空港に降り立った。
カバンひとつだけを手にしての、地球の裏側へのサッカー留学。日本語はまったくわからない。いまのように、スマートフォンやインターネットを介して、情報を入手することもできない。頼りにしたのは、自らを渋谷幕張高校へ誘ってくれた、日系ブラジル2世の宗像マルコス望監督の存在だった。
日本が、父方の祖父母、田中義行さんと照子さんが生まれ育った国であることは、もちろん知っていた。留学を決めてから、日本で暮らすうえでのアドバイスなど、さまざまな話を2人から聞かされてきた。闘莉王は語る。
「ただ、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、戦前に日本からブラジルへ移住したわけですからね。戦前の日本と1998年の日本との違いがあまりにも多すぎて、ブラジルでいろいろともらってきたアドバイスは、正直、ほとんど役に立つことはなかった」
日本国籍を取得して田中マルクス闘莉王となり、日本語も流暢に操れるようになり、文化や伝統に対する造詣も深まってくるにつれて、照子さんから授かったひと言を何度も思い出した。
「お婆ちゃんからは『日本人魂』を学びなさいと、ずっと言われていたんです。要は『人に対するリスペクトがブラジル人とはまったく違う』と、顔を合わせるたびに口を酸っぱくして言われてきました。実際に日本へ来てみて、ちょっとずつ言葉を話せるようになり、文化もわかるようになってくると、お婆ちゃんの言葉の意味が、自分のなかでどんどん膨らんできた。こういうことを言ってくれていたのかと、なるほどと思うことが何度あったことか。来日して21年になりますけど、この国にいればいるほど『日本人魂』というものは大切なんだと感じています」