経済・社会

2019.12.05 05:00

アフガンの地で絶命した医師、中村哲の遺志。武器を捨てた農民とともに復興を推進

2003年フィリピンにてスピーチする中村哲 ( Photo by David Greedy/Getty Images )

2003年フィリピンにてスピーチする中村哲 ( Photo by David Greedy/Getty Images )

1983年からパキスタンでの医療活動から始まり、隣国アフガニスタンで農業用水路の建設などによる復興に携わってきたNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡)の現地代表の医師、中村哲が12月4日、アフガニスタン東部で車で作業場への移動中に銃撃され、亡くなった。国内外に衝撃が走った。
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ペシャワール会によると、中村は右胸などに銃弾を受け、ジャララバード市内で緊急の手当を受けたものの、帰らぬ人となった。73歳だった。

このほか、現地の中村専属のドライバーや警備員など5人も、何者かによる銃撃に巻き込まれ、亡くなった。アフガニスタンでは、旧支配勢力タリバンやIS組織による襲撃などが発生し、治安が悪化しているが、タリバンは事件発生後の3時間後に「襲撃に関与していない。この団体は復興に関わっており、タリバンと良好な関係を持っていた。(ペシャワール会は) 誰も標的ではない」との声明を発表した。

異例の「名誉国民」になった矢先に
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中村は医師でありながら、2000年代のアフガニスタンの大干ばつを受け、活動を難民らの診療から、もともとは専門外であった農業分野にまで拡大。これまで現地の人とともに、1600基ほどの井戸を堀り、「緑の大地計画」として、2003年からは灌漑用水路の建設を始めた。東部に流れるクナール川周辺で、福岡市の面積の半分ほどに当たる約1万6500ヘクタールを肥沃な土地に蘇らせた。

実は、筆者は2005年10月、母校で中村医師による講演会が開かれた際に、ペシャワール会の活動やアフガニスタンの干ばつ被害の拡大についての現状を聞いたことがある。まだ14歳という多感な時期で、人道支援の現場の話に胸を打たれた記憶がある。落ち着き、深みのある声で壇上で話す中村の姿が、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。小柄ながら、存在感のある人だった。

ペシャワール会によると、アフガニスタンの用水路の建設事業では、これまで延べ200万人以上を雇用した。貧困によって難民や武装化勢力にならざるを得なかった人たちの失業対策にもなり、現地での信頼も厚かったという。用水路により、水を安定的に供給することによって農地回復に繋がるため、医師である中村にとって「医療行為の延長」という考え方だった。

中村の活動は「アフガン復興の鍵」とされ、2003年にはアジアのノーベル賞と言われる「マグサイサイ賞」の平和・国際理解部門賞を受賞。2019年10月には、アフガニスタンのガニ大統領から、同国市民証を授与され、日本人としては異例の「名誉国民」となった。これにより、ビザが免除されるなどの待遇を受け、活動がしやすくなったばかりだった。ペシャワール会によると、中村は「今後20年間は活動したい」と意欲を見せていたという。

先月の11月16日から29日まで、中村は日本に帰国。ペシャワール会事務局でも現状報告をし、アフガニスタンに戻ってまもなくの出来事だった。
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