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フォーブスジャパン編集部



ペシャワール会・中村哲
中村医師とPMS現地職員。いつものメンバーとアフガニスタンにて (ペシャワール会提供)

「登山が好き、蝶が見たいから」

なぜ、そもそも中村はパキスタンや隣国のアフガニスタンへと向かったのだろうか。

ペシャワール会の福元はその鍵となる、中村哲のストーリーを会見で語った。

中村は中学時代にキリスト教徒になり、山登りが好きな青年だった。そして、本人はのちに周囲にこう語っていたという。

「貧しい人を助けようと現地に行ったのではない。好きな蝶々や昆虫が見たいから、パキスタンで登山隊のドクターとして参加した。登山の途中では診療を拒否できないというルールがあったものの、多くの人から助けを求められ、なかなか大事な薬を渡すことができなかったのが、心残りであった」

こんな思いが、中村をパキスタンやアフガニスタンに向かわせ、貧困層のハンセン病治療に始まり、アフガン難民の治療行為から、山岳部の医療過疎地での診療所の開設へと繋がったのだという。福元は「理屈ではなく、義理と人情の人だった」と評した。

当初、アフガンの地はボロボロだった。1978年以降、断続的に続くアフガン紛争の影響により、難民は増え続け医療は足りず、農地は荒廃していた。また人口の8割が農民と言われる土地で慢性的な食糧不足が起こり、水不足により赤痢やコレラが発生し、農民の健康状態は悪化の一途を辿っていた。

特に2000年の大干ばつを受け、医療活動と平行して水源確保事業を開始した。2002年からは「緑の大地計画」として、食料増産モデルの確立を目指した大規模な開墾事業を開始。灌漑用水路の建設や、地域の教育機関の設置などを行い、推定15万人もの難民が農村に定着することができたという。

「三度の飯が食えて、家族が一緒に暮らすことができれば良い」。これは、常々、中村が言っていたことだという。現地の人たちに先入観を持たずに接し、何が求められているかを考えて行動していたのだろう。


2003年フィリピンで、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞した中村哲。左から2人目。 (Photo by David Greedy/Getty Images)

14歳だった私たちに語ったメッセージ

2005年10月、筆者が中学3年生のときに母校で聞いた講演会では、中村は映像や写真を交えながら現地の様子を語った。そこには、貧しくても明るい子供たちの笑顔があり、感銘を受けた。

最後に日本で平和に暮らす若者であった、私たちに中村はこう呼びかけた。

「お金があれば幸せになれるという迷信、武力で平和は守れるという迷信に惑わされないでほしい。本当に人間にとって大切なものは何なのか、大切でないものは何なのかを考えてほしい」

シンプルだが力強く、若者でも受け止めやすい言葉だった。きっとアフガニスタン現地でも、相手の胸に響くようなメッセージを発していたのだろう。

絶筆に記した、中村哲の問いかけ

中村の絶筆となった原稿がある。西日本新聞での連載「【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】信じて生きる山の民」(12月2日配信) だ。

この記事では、中村自らの「緑の大地計画」がアフガニスタン東部の中心地である農村を潤し、2020年、その最終段階に入ることを伝えていた。また、家父長的な封建秩序の下にある山岳民族が暮らす村の80歳の指導者と会ったときの意外なエピソードを語っている。この文章を締めくくる最後の言葉を抜粋したい。

「近代化と民主化はしばしば同義である。巨大都市カブールでは、上流層の間で東京やロンドンとさして変わらぬファッションが流行する。(中略)人権は叫ばれても、街路にうずくまる行倒れや流民たちへの温かい視線は薄れた」

さらに世の先を憂うように、こう綴っている。

「国土を省みぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦。襲いかかる温暖化による干ばつー終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか。見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方を見つめる」

中村の視線の先には、どんな世界が見えていたのだろうか。本人から聞くことはできなくとも、私たち一人ひとりに、一度立ち止まり、いま生きている世界を冷静に見つめ直すことが必要だ、と静かに訴えかけているようだ。

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