「生涯政治家」を貫いた中曽根元首相が、戦後日本に与えた5つのインパクト

2007年1月、香港にて。香港柔道館40周年記念式典に出席する中曽根康弘元首相 (South China Morning Post via Getty Images)


2. 「ロンヤス同盟」でアメリカ外交

イギリスでは「鉄の女」ことサッチャー首相、「強いアメリカ」を唱えるロナルド・レーガン大統領が登場した後に中曽根が首相に就任したことで、「新冷戦時代」が幕を開けた。

レーガンのことをロン、中曽根のことをヤスと呼び合う親密性を国内外にアピールし、ソ連脅威論を再燃させたのである。この時、アメリカは安全保障面での「責任分担」を日本に要求。中曽根も「戦後の悪しきものを一掃する」と、レーガンに対して「日米は運命共同体」と述べた。さらに発展して、ワシントン・ポストのインタビューでは、「日本列島を不沈空母にする」と発言。「日本はアメリカの防波堤か」と大きな議論を呼んだ。

一方のアメリカはロンヤス関係を利用した。自国の財政悪化に対処するため、日本に政治経済のシステム改善を要求。規制緩和などを求めて、これがのちのバブル経済につながっていく。

3. プラザ合意後「バブルの引き金」の批判

1983年に、中曽根は都市開発を目指す「アーバン・ルネッサンス」を唱え始め、宅地供給を増やすために、土地規制緩和を進めた。日本車を始めとした対米輸出を巡って貿易摩擦問題も浮上する中、1985年のプラザ合意で円高路線に合意した後、内需拡大政策として、民間活力を表す「民活」として、国有地の払い下げなどを行った。これによるゴルフ場を含む、リゾート地開拓が進み、バブル経済の引き金となったという批判もされた。

カナダ元首相と中曽根元首相ら
1986年、カナダでブライアン・マルルーニー元首相(左)と中曽根元首相ら (Toronto Star via Getty Images)

4.「この際、東西冷戦の構造を解消しましょう」

これはほとんど知られていないが、中曽根はタカ派の顔をもつ一方で、大局観によって世界を動かそうとしていた。1985年、日米首脳会談でレーガン大統領にある秘策を持って、東西冷戦の解消を提案している。それは、朝鮮半島において分断された韓国と北朝鮮が、周辺国と国交を結ぶ「6カ国によるたすき掛け承認」を行えば、冷戦構造自体に意味がなくなり、38度線が解消するもの。この提案の半年後に、米ソは首脳会談を行い、核軍縮交渉が加速化した。

89年には、ベルリンの壁が崩壊、韓国は90年にソ連と、92年に中国と国交正常化した。中曽根の発言が冷静終結の動きにどれほど影響したかは不明だが、この中曽根構想が「2002年の小泉首相による日朝平壌宣言とその後の六カ国協議の下地になった」と、山崎拓元副総裁(中曽根内閣当時は官房副長官)が後に交渉の舞台裏を語っている。

5.「生涯政治家」を掲げる

2003年、小泉純一郎首相(当時)から年齢を理由に選挙に出馬しないよう要請されると激怒したのは有名な話。しかし、議員は引退したものの、「生涯政治家」を掲げた。

自らが会長を務める公益財団法人「中曽根康弘平和研究所」を拠点に政治活動を続けた。2018年5月27日の100歳の誕生日には「今後も国家国民のため、郷土のために精進努力を重ね、最後のご奉公に努める所存だ」と、意気込みを発表した。

首相の在職日数は小泉や安倍に抜かれて、戦後第5位。しかし、これだけ強烈なエピソードを残したのは、大局観をもって歴史を変えようとしていたからだろう。歴史を転換させる際には大きな副作用を生む。そういう意味でも記憶に残る首相としては、田中角栄に並ぶインパクトを残したと言えるだろう。

文=フォーブスジャパン編集部

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