「生涯政治家」を貫いた中曽根元首相が、戦後日本に与えた5つのインパクト

2007年1月、香港にて。香港柔道館40周年記念式典に出席する中曽根康弘元首相 (South China Morning Post via Getty Images)

タブーなきインパクトを世に問うた

歴代首相の中で、中曽根康弘元首相ほど「流行語」を生んだ首相は他に例がないだろう。子どもですら覚えるほどの強いキーワードを生み出した首相であり、いま振り返ると、タブーなきインパクトを世に問いかけ続けたと言える。

11月29日に101歳で亡くなった中曽根元首相の「言葉」から戦後日本が、どのように見えてくるだろうか。

1997年に大勲位菊花大綬章を受章して以来、ニックネームのように「大勲位」と呼ばれ続けたが、1982年に首相に就任した際はこう揶揄された。「風見鶏」「たなかそね内閣」。当時キングメーカーだった田中角栄に頼み込んで、田中派の支援で首相になったからだ。しかし、本人は怯むどころか、記者会見で「たなかそね内閣」を指摘する記者に対して、「謝りなさい」と怒声をあげ、そのシーンは全国に生中継された。まさに強い首相が登場したことを世間に知らしめたのだ。

その後、「ロンヤス同盟」で力を誇示する日米トップによって「対ソ共同抑止」を強固にしていくと、「不沈空母発言」(ソ連の爆撃機の侵入に対する巨大な防壁を築き、全日本列島を不沈空母のようにするというもの)、「GNP1%枠」(防衛予算はGNP1%内だったがその枠を撤廃しようというもの)がキーワードとして、ニュースとして頻繁に取り上げられた。

経済面でも日米関係が話題になった。「貿易摩擦」「牛肉オレンジ」(アメリカが牛肉とオレンジの輸入枠拡大を日本に求め続けた問題)という言葉がメディアを賑わせた。行財政改革では「めざしの土光」が流行語となり、そして深刻な赤字国鉄の「分割民営化」は、全国で過激派のゲリラ活動を活発化させた。駅舎が放火されたり、信号ケーブルが各地で切断されたりして、通勤通学の足が麻痺するなど、「国鉄民営化」はまさに長い闘争となった。

中曽根康弘の若き頃
左から順に、武藤嘉文、中曽根康弘、木村武千代。1966年3月の写真。 (Denver Post via Getty Images)

それでは、中曽根元首相の5つの発言と行動を振り返ってみよう。

1.「戦後政治の総決算」

「我が国はいま、戦後史の大きな転換点に立っている」として、彼が推進した一つが行財政改革である。その改革の象徴となった流行語が「めざしの土光」だった。

中曽根元首相と土光敏夫・元経団連会長が二人三脚を組み、「第二次臨時行政調査会(通称・土光臨調)」を組織。中曽根は「増税なき財政再建」という大鉈をふるう。この頃、NHKが土光に密着した映像を放映。家庭での土光の質素な食事が大きな話題になり、老夫婦ふたりでめざしを食べていたことから「めざしの土光」と呼ばれた。

一方、中曽根は一般会計予算の超緊縮予算を編成。また、当時、組合の激しい抵抗からタブー視されたていた「赤字国鉄」に切り込む。電電公社、専売公社、国鉄の「3公社」を分割・民営化し、NTT、JT、JRに生まれ変わらせた。
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文=フォーブスジャパン編集部

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