──新作ドキュメンタリーの『i −新聞記者ドキュメント−』では、「私」を主語に発信することの大切さを伝えています。なぜ、そのようなメッセージを発したのでしょうか。
ジャーナリストの現場性が希薄になっている。現場に行って自分の目で見て、人々の声を聞いて、自分が何を思うのか。
怒りを感じるのか、悲しみを持つのか、どういう使命感を持つのか。それらの主語は、会社ではなく、私たちでもない。一人称単数の自分であるはずです。
「客観公正」な記事なんて書けません。主観なんですよね。記者の視点と言ってもいいと思います。むしろそれが重要なんです。客観や中立を目指すことは間違ってない。でもこれを装うことは間違いです。
もっと一人称単数の主語の記事が増えて良いと思います。日本の既成メディアは「客観公正」「不偏不党」を自分たちのエクスキューズに使っています。
東京新聞の望月記者。『i -新聞記者ドキュメント-』から。(C)2019「i -新聞記者ドキュメント-」製作委員会
そんななかで、東京新聞の望月記者が、いま、批判もあるけれど、これだけ称賛されているのなぜか。
それは、周りが地盤沈下しているから。
そして、彼女が浮上している理由は、いつでも望月衣塑子そのものだからなんです。決して優秀で完璧な記者ではない。欠点も多い。それらのマイナスを加味しても、彼女がこれほどに突出する理由を、メディアに帰属する人たちは考えるべきです。
彼女が突出する理由のひとつは、彼女は“KY的”であるから。つまり空気を読まない。集団の一部に埋没しない。だからセキュリティ意識が過剰には発動しない。主語を一人称単数の個に保ち続けているから、述語が暴走しない。
これには既視感があります。『A』や『A2』を撮影している頃、危険はないのか、などとよく質問されました。オウムへの危険性だけではなく、『A』では不当逮捕する警察を撮っているし、『A2』では右翼の幹部たちが重要な被写体です。怖い思いをしたことは一度もありません。
オウム信者も含めて、普通に話せば言葉は通じるし、みんな喜怒哀楽があって優しい人たちです。当り前ですよね。でもメディアの報道だけを信じていたら、ひとつの面ばかりが強調されて、ステレオタイプな存在になっていく。
それでは自分の人生がもったいない。もっとみんながリテラシーを持って、真実はひとつではないことに気づいてほしいですね。
森監督は『A』を皮切りに、私たちが見えていない世界に切り込んできたドキュメンタリストだと思っていた。だが、本人はこう否定した。「いや、本当は、見えているんですよ。みんなが見ようとしていないから、なんで? って思うくらいです」。目から鱗の答えだった。私たちはいつでも、自ら求めれば、物事の新しい一面を知ることができるのだ。
情報の海の中で、不安になる必要はない。さまざまな角度の情報に触れ、自分にとっての「真実」を探せば良い──。私は、森監督がそっと、そう教えてくれているように感じた。