劇的な変化から、数週間後、私は再び彼に連絡をとった。日本に帰ってきて、彼はどんな生活を送っているのだろうか。
「空港に降り立ったら、もうそこは日常。あたり一面に広がる湖も、静けさも、何もない。すでに次の『仕事』が頭をよぎっていたよ。簡単に人生って変わるもんじゃないね」
彼はまた感覚を鈍らせていくのだろうか。
ヌークシオ国立公園の湖
帰国してからサウナに行ったかと聞いてみると、まだ行けてないという。ただ、家で「サウナのような体験」ができないかと試してみたらしい。湯船にお湯をため、お湯に浸かり、ベランダに出て冷たい外気を浴び、椅子に座った。それを2時間ほど繰り返した。片手にビール、そしてタバコも吸いながら外を見上げると、どんよりとした曇り空が広がっていた。
ヘルシンキのようなカラッとした空気ではなく、じっとりと肌に貼りつく湿気。そしてパラパラと雨が降り始める。自分が思い描いていたような「擬似サウナ体験」は手に入らなかった。
しかし自宅で得られなくても、これからもあの忘れられないサウナ体験を貪欲に探して行けばいい、と彼は言った。
「ミラクルは起きてないし、日常も変わっていない。でも、選択肢は増えた」。子供に戻ったようなあの忘れられない感覚。それに出会う選択肢がこれからもあるはず、と彼は前向きに話す。
時代が感覚を鈍らせるのか
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彼の生き方は誰にでも当てはまると思った。
「働き方改革」と叫ばれる中で、仕事を中心とした生き方を今さら変えられない人は少なくないはず。10日間のゴールデンウィークに「何をしたらいいのかわからないから、とりあえず仕事をした」という声も聞いたことがある。
個の時代に伴う人材の流動化、そこに不安や期待を抱きながらも、一歩踏み出すことに躊躇し続ける人もいるだろう。もしくは、このままだったら静かに組織にいた方いいのかもしれないと、置かれた場所に根を張る人もいるかもしれない。
未来が見えないから、日常に溶け込み、感覚を鈍らせる。いつしか自分を騙すような生き方しかできなくなっていく。
彼がこれに全く当てはまるのかはわからない。しかし、フィンランドで日常から離れ、贅沢な「静寂」と向き合った時、人生に能動的に向き合う努力を彼は始めた。
「とくに面白くないですが、ふと思い出したので」と最後にコーヒーの話をしてくれた。今までだったらコンビニのコーヒーばかりを胃に流し込んでいたのが、フィンランドで粉を買ったこともあり、久々にドリッパーで落とすようになったようだ。
「わざわざ手間をかける、あの無駄な時間は良いです。そういえばコレ嫌いじゃなかったと思い出しました」
取材で彼は「思ったほどそんなに変わっていない」と強調していた。日常に溶け込むことで急速に元の彼に戻っていく可能性もある。しかし、このエピソードは私の頭の片隅でひっそりと居座り続けそうだ。
「感覚を鈍らせるな」。生き方の本質に触れた気がした。